「鶴村日記」に見入る小林会長=金沢市内

金沢城下、冷静に「自粛」 加賀藩漢学者、200年前の日記

2020/05/13 01:24

 今よりもウイルスが未知なる脅威だった時代、加賀藩は感染症とどう闘っていたのか。「才川(犀川)片町往来人稀(まれ)なり」。今から200年ほど前、漢学者が記した日記には京や大坂の混乱をよそに、人との接触を避けて閉じこもり、必死に耐えた城下の様子が活写されている。自粛の「緩み」が危ぶまれる中、加能民俗の会の小林忠雄会長(74)=金沢市=が読み解いた。

 

 感染症の記述があるのは加賀藩重臣に仕えた漢学者、金子有斐(ありあきら)が31年間にわたってつづった「鶴村(かくそん)日記」。1821(文政4)年2月26日には、「流行風邪」がもたらした影響が記されている。

 

 風邪は伊勢国(現在の三重県)から始まり、2月上旬には大坂、京都で流行し、下旬に金沢城下まで到達した。物売りの姿もなくなり、片町の通りには人影もなかったという。今で言う外出自粛である。症状のある人は葛根湯の服用で治していた。

 

 小林会長によると、城下のお触れをもらさず記述する筆まめな漢学者の日記に当時、「外出自粛」が求められた、との記述はない。見えない感染症から身を守るための、自主的な行動だったと考えられるという。「未知の敵から身を守る最善の対処法を、当時の加賀の人は自然と身に着けていたのだろう」と評価する。

 

 こうした民衆の「自粛」とは正反対だった地域もある。3月10日の日記には、発生地に近い大坂から届いた手紙の記述がある。いわく、各家では一人残らず風邪にかかり、風呂、髪結い、芝居も休業、役者も風邪だとつづる。

 

 そんな中、大坂の人々は何をしていたか。疫病退散のための「風の神送り」の祈願が毎夜、100、200は行われ、救いを求める人々が群がり、その数は数千人に膨れ上がったという。感染症は群衆を好む。手紙の主は、「あきれるばかり」と憂いている。

 

 ウイルスも、西洋医学の薬の知識もない時代であるが、加賀藩の人々は結果として、外出を避け、時を過ごした。小林会長は「加賀の人々の冷静な対応は、現代のコロナ禍でも学ぶところがある。忍耐強い土地柄を感じる。今こそ加賀の先人に習いたい」と、自粛の徹底ぶりを再評価している。