能登国守護所の位置について大島校長に説明する千田教授(右)=七尾高グラウンド

七尾高に畠山氏の館跡? 七尾城以前の拠点どこに 千田奈良大教授が考察

2018/12/13 01:40

 城郭考古学者の千田嘉博奈良大文学部教授は12日までに、京都から分国・能登に在国するようになった守護畠山氏が、七尾城を築くまでの間に守護所を構えていた場所は、七尾高グラウンドだったとする考察を示した。一方で、守護所は七尾湾や能登島が見える七尾市街地だったとの学説もあり、15世紀後半の能登の治世拠点をめぐる謎に一石を投じている。

 

 能登国の守護に就いた能登畠山氏は3代まで在京し、代わりに守護代の遊佐氏らが、「鹿島郡八田郷(やたごう)府中」(現七尾市)に置いた守護所で政務を担った。応仁・文明の乱後の1478(文明10)年には初めて3代義統(よしむね)が能登に在国したが、それから16世紀前半に畠山氏が七尾城を居城とするまで、府中の守護所が七尾のどこにあったのか特定されていない。

 

 千田教授は近代開発が進む前の土地の境界や土地利用が分かる明治期の地籍図を分析した。全国的に守護所解明の手法として使われており、千田教授は先月、七尾高を訪ね、大島尚文校長に分析結果を紹介した。

 

 現在の七尾高グラウンドは、ほかの平地より一段高く、当時は畑として利用されていた。畑の周囲には水田が帯状に連なり、館を囲む堀の跡がうかがえた。堀を含めて一辺が約200メートルと広い方形区画で、その規模からみて、室町・戦国期の巨大な館跡と推定されるとする。

 

 千田教授によると、館の東側には守護代館や寺院の跡と思われる100メートル四方の方形区画も併存し、守護所の典型的な特徴がみてとれる。館跡は御祓川に沿っており、七尾湾につながる海運の便を得る点で理にかなった立地だったとみる。

 

 千田教授は畠山氏の守護所は全国の在国大名の中でも最大規模だとし「京都の将軍邸を模した館を造ったのだろう。畠山氏は軍事力でなく、将軍の権力を示すことで能登安定を図ったのではないか」と指摘した。

 

 一方、別の説を唱える研究者もいる。

 

 金沢学院大の東四柳史明名誉教授は、能登に下向した義統は、海が見える七尾市街地に居館を構えたとみる。論拠とするのは、義統が京都から一流歌人招月(しょうげつ)庵(あん)正広(しょうこう)を招いて守護所で開いた歌会の記録だ。正広は「能登の島山」と歌に詠んでおり「守護所が能登島を望む七尾南湾に近い場所だと分かる」と主張する。

 

 東四柳名誉教授は七尾高グラウンドについて屋敷の遺構であるとしながらも「近世の絵地図から小丸山城を築いた加賀藩祖前田利家の時代、前田家家臣の館があったのではないか」と指摘した。中世七尾の都市の変遷についての諸説は市民の歴史ロマンを広げる期待がある。千田教授は「発掘調査をすれば、畠山氏の精華を物語る遺構が現れるのではないか」と話した。

 

 千田教授は16日午後1時半から、県七尾美術館で講演する。七尾ロータリークラブの能登立国1300年記念講演会(北國新聞社後援)で、「七尾城から見た街づくり」と題し、山城・七尾城と能登畠山氏の治世について解説する。