連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/12/03付)
マニラに死す 〜
国外追放、そして伝説に 「わが主を仰ぎに行く」

長崎市の大浦天主堂(左)から展望した長崎港。右近はここからマニラへ向けて出港した
 1613年(慶長18)年12月、徳川幕府は伴天連追放令を発した。マードレ・デ・デウス号事件を契機に、幕府内部のキリシタンが弾圧され、京都では追放すべきキリシタンの名簿がつくられていた。追放令と称しながら、キリシタン信仰を一切認めない事実上の禁教令である。
 イエズス会年報によれば、キリシタン名簿作成の動きを察知した利長は、筆頭家老の横山長知を呼び、右近に表向き棄教を勧めるよう命じた。長知は右近の娘の岳父であり、右近とも親しい。説得には打ってつけの人物であったが、右近の人柄をよく知る長知は、即座に説得は無駄であると弁じた。利長もこれに納得し、あえて本人に伝えなかった経緯がある。
 伴天連追放令が出る直前、右近は金沢に居住していた宣教師を匿おうとしていたが、準備が整わぬうちに長崎追放の命令が発せられ、宣教師は金沢を去らざるをえなかった。右近一族の追放令が出たのはその3日後である。
 右近の友人たちは、むなしい努力と知りながら最後の説得を試みた。「うわべだけでも信仰を捨てよ」「せめて子や孫たちを棄教させよ」。
 右近は既に殉教を覚悟していたのだろう。いかなる説得にも耳を貸さなかった。一昼夜のうちに身の回りの整理を済ませ、主君利常に「もはやご奉公ができぬ」という理由で黄金60枚を届け、茶友でもあった利長には形見として秘蔵の茶入れを贈った。
金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する「高山右近肖像画」。マニラへ向かう船上の様子を描いている
 翌年1月17日、右近一族は金沢を去った。この地で暮らした26年の歳月を振り返る余裕もない慌しさであった。右近に同行したのは、ジュリア夫人、横山康玄に嫁いだ娘ルチア、亡くなった長男ジョアン夫妻の子で、右近の孫にあたる5人と内藤如安、宇喜多休閑の家族である。娘ルチアは、夫と離別して右近に従った。5人の孫は8歳から16歳であったという。
 目的地は京都である。周囲を警護の兵が固めるなか、肌を刺す寒さをこらえ、険しい雪道をただひたすら歩く。このとき、右近の脳裡にあったのは、十字架を担ぎ、ムチに打たれながらゴルゴダの丘を登ったキリストの姿だったかもしれない。
 一行は、京の手前の坂本(現在の滋賀県)で京都所司代に引き渡され、その地に留め置かれた。京の街に入れなかったのは、在京のキリシタンの目に触れさせないための配慮であった。ひと月ほどのちに大坂へ移り、船で長崎に護送された。娘や子供は希望すれば京都に留まってもよいとの達しがあったが、全員が右近と行動を共にすることを望んだ。
 長崎ではトドス・オス・サントス教会(現在の春徳寺)に収容されたが、幕府は右近の処分を決めかねていたのであろう。右近を監視下に置いたことで、右近が大坂方に走る懸念は無くなった。当時、大坂城には明石掃部全登(かもんてるずみ)らキリシタン武士が続々入場していたのである。しかし、処刑してしまえば、殉教者・右近の名声はさらに高まり、キリシタン勢力の精神的支柱として半ば伝説化することは目に見えている。
 国外追放という前代未聞の「処分」は、いわば苦肉の策であった。家康がまさに大坂城攻めの大号令を発した直後、右近一族は、イエズス会宣教師や修道士ら100人とともに長崎を放逐された。ジャンクや小型船が慌しくかき集められたかと思うと、風向きや定員などはお構いなしに、マカオとマニラへ向けて宣教師とキリシタンを追い払ったのである。
 イエズス会年報によれば、10月7日、右近一行が出港した後、家康はにわかに船の撃沈を思い立ち、長崎奉行に急使を立てたとされる。
秀吉の命に逆らって信仰を貫いた信者26人が処刑された丘に建つ「長崎二十六殉教者記念像」=長崎市西坂町
 マニラ到着までの1カ月は、難行苦行の日々が続いた。甲板や通路に人があふれ、悪天候と食糧難で病気になるものが続出した。高齢の神父ら数人が死亡したほどであった。
 精魂尽き果てた右近一行は、マニラで思いもかけぬ歓迎を受けた。マニラの要人がこぞってガリレオ船に乗り込んで出迎え、要塞砲は一斉に祝砲を放った。波止場には聖なる人を一目見ようと黒山の人だかりができ、教会は鐘を打ち鳴らし、マニラ城門には儀仗兵が勢ぞろいしていたのである。  祝宴の席で、マニラ総督シルバは右近のために数軒の屋敷と、十分な禄を与えると申し出た。遠くバチカンにまで聞こえた右近の名は、マニラでもよく知られていたのである。
 だが、右近はようやくたどり着いた安息の地で、高熱を発して床に伏した。マニラ到着から約40日後のことである。過酷な船旅の無理がたたったのであろうか。右近は再び起き上がることなく、創造主の元へ旅立った。その直前、「わが主を仰ぎに行く」と幾度も繰り返したという。慶長20年1月8日、1615年2月5日未明のことである。享年63歳であった。(おわり)

●〔キリスト教国の右近〕
 右近の遺骸はマニラのサンタ・アンナ教会に埋葬された。のちサン・ホセ聖堂に移されたが、約150年後にイエズス会が解散したために、遺骨の行方が分からなくなった。臨終に立ち会ったモレホン神父はマニラ市民の求めに応じて右近の伝記を書いたという。右近の生涯は17世紀から18世紀にかけて、西欧諸国でバロック劇として幾度も上演された。右近はこの時代のキリスト教国で、最もよく知られた日本人であった。

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