連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/11/19付)
〜慶長のクリスマス 〜
金沢城下で聖夜祝う キリシタンにつかの間の春

クリスマスミサで、祈りをささげる信者。約400年前にもこんな光景が見られたのだろうか=金沢市広坂1丁目のカトリック金沢教会
 右近の茶には、「清の病」があるといわれた。茶室はむろんのこと、露地の隅々まで掃き清めなければ気がすまない。そんな右近の潔癖症を、織田信長の弟で、茶人としても名高い織田有楽は「病」にたとえた。
 だが、右近にとっての茶は、この時代の典型的な趣味人であった有楽の茶とは明らかに性格を異にしていた。宣教師のジョアン・ロドリゲスは「日本教会史」のなかで、右近の茶についてこう述べている。
 「(右近は)デウスにすがるために1つの肖像をかの小家(茶室)に置いて、そこに閉じこもっていたが、そこでは彼の身についた習慣によって、デウスにすがるために落ち着いて潜心することができたと語っていた」
 右近にとっての茶の道は、神へ通じる道であった。特に秀吉の伴天連追放令以降、茶室は人目をしのんで祈りを捧げる唯一無二の場所であったことは疑いない。
 右近の手元には、ローマ教皇シスト5世からの親書が届いていた。親書の日付は1590年。秀吉の伴天連追放令により、領国を追われたことへの慰めと励ましがつづられている。ローマから金沢に親書が届くまで数年を要したはずである。右近の感激はいかばかりだったか。
 右近の一族だけでひそやかに守られていた信仰の灯は、関ケ原の合戦以降、急速に加賀藩内に広まった。イエズス会年報によれば、1601年に171人が洗礼を受け、3年後には信者数は1500人に達した。金沢には南蛮寺(教会)が建てられ、司祭と修道士が常駐するようになり、内藤如安や宇喜多休閑ら名のあるキリシタン武将が続々と加賀藩に迎えられた。
 1603年には、右近の娘ルチアが加賀藩の重臣横山長知の長男康玄(やすはる)に嫁いでいる。ルチアはもとより、康玄もキリシタンであった。この事実は、加賀藩では、キリシタン信者の藩士がもはや珍しくなくなっていたことをうかがわせる。
 実際、藩主利長は右近を深く尊敬し、キリシタンに好意的であった。イエズス会年報には、利長が金沢へやって来た司祭を丁重にもてなし、「自分たちの家臣がかくも立派で聖なる教えを奉ずることを喜ばしく思う」と言ったとある。
 また、自分の母(芳春院)と姉妹に対し、「予は若いので洗礼はしないが、キリシタンの教えが説くこと以外に確かな救済の道はない」言って、説教を聞いて、洗礼を受けるように勧めた。芳春院は都から13里離れた大坂へ自らの意志で説教を聞きに行ったという。
宣教師たちが祭礼に使用した「南蛮蒔絵螺鈿(らでん)書見台」(岐阜市歴史博物館所蔵)精密な螺鈿細工には、ほのかな南蛮文化の香りがする
 1608(慶長13)年、金沢の南蛮寺で大掛かりなクリスマスが催された。この日のために、右近は自筆の書を招待客に送り、当日夜には異国の荘厳な儀式を一目見ようと多数の見物人が押し寄せた。聖歌が夜空にこだまし、厳粛な雰囲気の聖祭が終わると、右近は心をこめて招待客をもてなした。一同には結構なごちそうが出されたという。加賀藩におけるキリシタン信仰が頂点に達したのは、このころであろう。想像をたくましくすれば、ここで治部煮など南蛮風の料理が振る舞われたかもしれない。
 関ケ原以降10年間は、キリシタンの春が続いた。天下を手中にした家康は事実上布教を黙認していた。南蛮貿易の利と銀の採掘・造船技術をポルトガルやスペイン商人から得ようとしていたからである。だが、家康はいつまでたっても秀吉のキリシタン禁制を廃止しようとはしなかった。容易に腹の内を見せぬ家康のしたたかさを、右近は不気味に感じ取っていたに違いない。
 家康は1600年、豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長で、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)を召し抱えていた。当時、オランダ、イギリスはプロテスタントの国で、スペインなどカトリック国と敵対していた。家康から見れば、政教分離が可能な貿易相手がここに出現したのである。ヨーロッパの宗教対立がそのまま極東の島国に持ち込まれた図式であった。
 1609年、長崎で起こったマードレ・デ・デウス号事件をきっかけに、家康はキリシタン弾圧へと傾斜していく。キリシタンの春は終わりを告げ、一足飛びに厳しい冬を迎えようとしていた。

●〔マードレ・デ・デウス号事件〕
 長崎に来航したポルトガル船を肥前のキリシタン大名有馬晴信が包囲攻撃、沈没させた事件。同船には前年、マカオで有馬の持ち船の乗組員50人余りが殺された事件に関係したアンドレ・ペッソアが乗り込んでいたからである。この事件を機に旧領の復帰を画策した晴信は、家康の側近・本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八に金品を渡して周旋を頼んだが、家臣はこれを着服。ことが発覚した後、逆恨みした大八が晴信の長崎奉行暗殺計画を暴露し、晴信、大八はともに処刑された。事件の当事者がキリシタンであったことが弾圧の引き金になったといわれる。

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