連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/11/12付)
〜 金沢と能登の教会 〜
紺屋坂に「切支丹寺」の記述 能登に残る伝説に意味

 右近の知行地があったと伝わる志賀町末吉地区には公園が整備され、能登の田園風景を背景に右近像が立っている
 キリシタン話には多くの「まゆつばもの」や「混同」があって注意しなければならない。代表的なのが、いわゆるキリシタン灯ろうで、多くは偽物か、こじつけだといわれる。江戸期の十字模様は、宗教から離れて単なる紋様として人気を集めた時期があり、茶碗など色々なものに転用された。それが時代を経て、隠れキリシタンの遺物と混同されることが多いのだという。
 あるいは、前田利家や芳春院までがキリシタンだったということまでいわれ、中には前田家三代はすべてキリシタン大名になってしまう書物まである。利長がキリシタンの理解者であり、教団や右近に近い存在であったことは間違いないが、不確かな言い伝えを都合よく拡大した「キリシタン話」が北陸に多すぎるのはなぜだろうか。
 2つの理由があると思われる。1つは、加賀には高山右近が26年間も住み、布教を続けた重い歴史である。加えて、内藤如安(じょあん)や宇喜多久閑(きゅうかん)ら、関ケ原で敗れたキリシタン武将が右近を頼って金沢に来て十数年を共に過ごした事実もある。「加賀が日本一のキリシタン王国」と言われて当然のことかもしれない。内藤如安は秀吉の朝鮮出兵の後始末のため、中国の北京までいって交渉にあたった歴史的な武将であり、秀吉との関係から言えば右近に匹敵する存在と言っても過言ではない。加賀への移住はキリシタン史に相当の影響があったに違いない。ところが、如安や久閑が加賀に在住したことは明確なのに、十年余何をしていたかは、ほとんど知られていない。「加賀藩が徹底して(キリシタン関係の)記録を抹殺したことによる」(瀬戸薫石川県立図書館史料編さん室調査専門委員)と見られるが、その隠された歴史の影に、重い歴史が虚実合わせて都合よくもぐりこむのではなかろうか。
 「まゆつばもの」が生まれる理由の二点目には、外国人宣教師がローマに送った文書のなかに、宣教師のさまざまな表現が出てきて、それが検証されないまま独り歩きしていることがある。
 例えば16世紀末から17世紀中頃までの貴重な資料として知られる「レオン・パジェスの日本切支丹宗門史」には1620(元和6)年のこととして「加賀藩四代光高に洗礼を授けた」驚愕的なことが書かれている。
 「彼(フェルナンデス神父)は(越後から)越中に出て、加賀の城下町で3箇国の領主の居住の地金沢まで行った。彼は伝道のため、同地に3箇月留まり、将軍(徳川家光)の従兄弟(前田利常の子光高か)に洗礼を授けた。彼は能登を旅程の最後とした。同所では、聖なる光に輝く有徳の一盲人が、自宅に礼拝所を設け、そこに多くの信者が集まっていた」(吉田小五郎訳・岩波)
 ここには、明らかに事実ではないことが書かれている。光高に関する誤りは明白だ。理由は▽1620年は、右近が加賀から追放されて既に6年もたっている▽右近追放後の翌1615年に加賀藩は切支丹停止の高札を領内に立てている▽当時の光高はまだ4歳であり、仮に洗礼を受けるとすれば父の利常が認めたことになるが、禁止令を出した本人が息子を洗礼させることはありえない―からである。
 南蛮寺があったとされる兼六園紺屋坂
 ところが、400年後の今日、われわれは、宣教師が書いたことをすべて偽りだと決め付けられないから話はややこしくなる。宗門史にある能登への布教と信者の集いについてはそれに近いことがあったかもしれないからだ。
 「イエズス会日本報告集」(1605年の北国での出来事)項にもこう書かれている。 「金沢にはイエズス会もまた修道院と教会を有しており、そこに司祭1名、修道士1名が居住し」「司祭はそこから頻繁に能登の国のキリシタンを訪ねていく。彼らはすべてジュスト右近の家来たちである」。また、1606・1607年の項には「ジュスト(右近)がその知行の大部分を得ている能登の国で仕事をよりよく行うことができる」ともある。
 金沢の教会は、1605年石川門に近い紺屋坂下に建設されたという。では宣教師とはだれか。加賀藩資料を探しても出てこないが「宗門史」や「イエズス会報告集」とローマに存在する資料を照らし合わせることによって、「バエサ」と「トルレス」という2人の名が浮かぶという。バエサはヴァリニァーノと一緒に日本に来た神父だという。一方のトルレス神父は、天正少年使節と一部行動を共にし、右近と一緒に金沢を追放された人物だという。
 両者の経歴が混同した記述もあり、不明なところも多いが、大正時代から昭和初期、金沢に在住したP・ヘルマンという一神父が、右近についての研究をまとめている。  出版されることなく生原稿のまま今に残されたレポートには「トルレス神父はスペインの貴族出身で、哲学と神学を学んだ後、マカオで神学の教授を8年間務めた後1600年日本に到着。京都で日本語を学んだ後、大阪で布教にあたり、加賀に入ったのは1605年のことだ」と記されている。天正使節団には触れていないが、17世紀の世界を地球規模で体験した宣教師が、藩政初期の金沢や能登で布教していたのは確かなようだ。地方史と世界史を連動させた、専門家の深い歴史の発掘が求められるところだ。

●〔能登と右近〕  イエズス会報告や宣教師の情報に基づいた日本地図に「シオ(志雄か)」「ナジマ(輪島か七尾か不明)」などの地名がでてくることからも、能登に右近の領地があり教会があったのは事実だろう。ところが、能登のどこに右近の領地があったか今も正確にわからない。七尾の寺院に右近伝説が残り、志賀町や志雄町、九州の大分市に右近の子孫が存在したという話などもある。「まゆつば」と廃除するのではなく、なぜそこに伝説が発生したかを考えることも大切だろう。内藤如安の子孫が能登にいたとか、マニラに流された右近一族が、密かに日本に帰国して能登に入ったなどの話もあるからだ。

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