連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/11/05付)
〜 高岡城 〜
隠居・利長が築いた前線基地 家臣分裂の危機超えて

 高岡城本丸の西外堀は広く、直角に交わる西内堀を挟んで右の森が二の丸。正面の森の上に本丸があった。建物の木材は京都の伏見城を解体したものが使われたともいう。伏見城の築城時には越中から井波大工が動員されたといい、興味深い
 昭和も戦後になってから、400年前の加賀、能登、越中の歴史が、イタリアのローマで次々発掘され始めた。それまで知られていなかった北陸のキリスト教布教の歴史が、当時の外国人宣教師が書き送った報告書から、具体的なエピソードを伴って世に現れ、今も延々と翻訳され続けているのである。
 「イエズス会日本報告集・1605―1607年編」(同朋舎)には「丹波、越前の諸国と北国の諸国での出来事について」以下のようなことが書かれている。
 「北国とは都の北の方にあるので北の国という―」そこには「加賀、能登、越中とよばれる3カ国があり」「肥前(ひぜん)の守(かみ)=利長=がその領主である」  続いて利長の動向について書く。「本年、殿(利長)は越中の国に隠退し、己の所領の主要な城である加賀の国の城を公方(徳川家康)の孫娘(珠姫)と結婚している弟(利常)に任せた」と家督を譲ったことを紹介。金沢から富山へ移ったことはこう描いている。
 「世俗の義理や義務を果すことから解放されるために、かの国(富山)に隠退したといえ、(利長が)世俗への執着を失ったわけではなく、持参する家財を運ぶためだけに、1万人近くの人足が必要であった」
 利長は富山城に移ったものの、城は火災に遭い、魚津城を経て高岡に移ることになる。
 上空から見た高岡城址。長方形が重なったような平面プランで、高槻城や、秀吉の聚楽第と共通する。上部が伏木方面で富山湾まで意外に近いことがわかる=北國新聞社ヘリ「あすなろ」から

 1609(慶長14)年のことだった。富山の火災には困ったらしく「富山は立山から吹き降ろす風が激しく大火になる」(越中志徴)と、新天地を高岡に求めた。
 当時、関野原とよばれていた高岡には小高い塚があったという。土地の選定をまかせたのは、利長家臣の富田越後(とだえちご)と神尾図書(かみおずしょ)、資材調達を小塚淡路(こづかあわじ)に任せ、城の縄張りを右近に命じた。完成までの工期はわずか200日余だったとも言われる。
 城の完成とともに富田、神尾らは高岡に移った。だが、右近は金沢に残り、利常に使えることになる。本来、利長の信厚い右近がなぜ金沢に残ったのだろうか。加賀藩初期の謎の1つでもあるが、高岡城が築かれた背景を見ると「人は石垣」「人は城」という言葉が生きた時代の相がよく分かる。
 1600年の関ケ原の戦いを挟み、当時の前田家家臣団は、分裂状態だった。芳春院の甥、太田長知(ながとも)を筆頭に篠原、村井、奥村家が一派をなし、もう1つは右近も連なる横山長知(ながちか)を頭に長、富田、不破家の一団が存在し、対立を続けていた。1602年、利長はついに横山長知に太田長知殺害を命じるまでになる。が、抗争、粛清の嵐がやむには、利家・利長時代を直接知る重鎮世代が消え去るまでなお、十数年の歳月が必要だったのである。
 この嵐の中で利長は、富山に向かった。連れて行く家臣の人選にさぞかし悩んだと思われる。が、高岡に同行する者、金沢に残った者の顔ぶれを見る限り、極めて機械的に人選された形跡があるという。
 後の利常が小松に隠居する時に連れていく家臣団にも共通するように、家臣の振り分けはあくまで「本藩重視」で、隠居するものが私情を挟み、好きな者、優秀な者を連れていくような人選はなかったらしい。この後、加賀藩270年安泰の礎は、反逆と忠誠が生々しく交差した、利長時代の血生臭い教訓にこそあったのかもしれない。

 二の丸から本丸への連絡道路両脇の石垣。積み方は荒いが、垂直に近く高い技術集団が加わっていたことが分かる。金沢城と共通する刻印もあるとされる
 右近も派閥争いには無縁ではなかった。ただ、右近にとっての「反逆と忠誠」は、神に対してしか存在しなかった。そのことを家中のだれもが知っていた。キリシタンに理解を示す利長のため、右近は高岡城で精一杯の縄張りをしたに違いない。
 本丸の四方を内堀で囲み、南側の二の丸、東側の三の丸など各曲輪(くるわ)も四角の直線的な平面となっている。金沢城のように三の丸、二の丸、本丸が渦巻き状に高くなっていくのとは大きく異なる。右近は「平城(の設計)を得意とし、高岡城と高槻城は共通したものが見られる」(中村利則京都造形芸術大教授・建築史)という。例えば堀の面積は全体に極めて大きく、鬼門とされる「北東」にこだわらず、東北側に広い湿地帯を配置した。
 特に東側(正確には南東側で富山市側)が二重の堀にして守りを固めているのに対し、加賀方向に当たる本丸裏西側は一重の堀であるの見れば、高岡城は東方向から攻めてくる敵を、加賀を背にして前線で食い止める役割を意識しているのは明らかだ。
 利長にとって城は領土の中心ではなく最前線に築くものだった。領土を拡大するたびに城を築き、例えば清洲、岐阜、安土などのように最前線に自らの居城を構えたのは織田信長だった。また、「戦とは、敵陣に踏み込んで行うもの。自分の領地ではしない」と遺言したのは前田利家である。
 守りを固めながらも前進し、隠居したといえ「前田家」第一―。利長も右近も、信長と利家のよき弟子であり、忠実に教えを守っていた。高岡城の広大な水面と、城址に茂る黒々とした森は、そう語っているかのようである。

●〔右近の築城術〕
 右近が設計した城は、高槻城や明石船上城、金沢城などがある。が、いずれも、もともとあった城の輪郭に手を加えたものであり、さらに後世、大規模に改造されているため、正確に右近の個性がどこにあったかは推測するしかない。ただ、高岡城だけは、まったく白紙の上に右近が一から設計図を描き、工事を指揮した城である。さらに、築城わずか五年で廃城となったまま二百数十年後の明治維新まで放置され、維新後も大きく破壊されずほぼ原型のまま残されている。高岡城は右近の残した最大のタイムカプセルといえる。

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