連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/10/22付)
〜 関ケ原 〜
家中の信頼、一層強固に 大聖寺、北越前を平定

高山右近ゆかりの品と伝わる「南蛮鐔(つば)」(岐阜市歴史博物館所蔵)の裏面。クモの巣や下がりクモ、ナンテンのほか、ローマ字の「C、F、j、i」が図案化されたデザインになっているとされる。ローマ字はキリストや右近らの頭文字を表しているとする説もある
 「私を捨てよ」。そう言い残して、芳春院(まつ)は、伏見城を出て江戸に向かった。慶長5(1600)年5月17日のことである。利家の死後わずか1年足らずで、前田家は家康に屈した。
 この事実をもって、利長を凡庸と決め付けるのは間違っている。家康の勧めに従って、領国へ帰ったのは利長1人ではない。毛利、上杉、宇喜多の五大老も同じく帰国せざるを得なかった。利家の死を契機として、家康の存在感が増し、有形無形の圧力に耐えきれなくなっていたと見るべきだろう。
 天下を狙う家康は兵を出す口実が欲しかった。が、利長は賢明にもその手には乗らなかった。家康は失望したに違いないが、ほどなく前田家に代わる標的が見つかった。領国・会津の要塞化を着々と進めていた上杉景勝である。
 東西の手切れは、家康が福島正則や細川忠興ら豊臣恩顧の諸大名を率いて、会津に攻めかかる直前に起こった。家康の留守中に石田三成らが挙兵したのである。利長のもとには、東西両軍から誘いがあったが、既に芳春院を人質に取られてしまっている。前田家謀叛の「でっちあげ」をまことしやかに言いふらした三成周辺への反感もあっただろう。利長が東軍に付いたのは自然な成り行きだった。
 慶長5年7月26日、総勢2万5千の前田軍は西へ動いた。『明良洪範』によれば、高山右近は、軍奉行を命ぜられていた。北条攻めから10年余り。前田家中で、右近ほど実戦経験豊富な指揮官はいなかったはずである。

 当面の敵は、小松十三万石の丹羽長重、大聖寺六万石の山口玄蕃であった。その先にも北ノ庄(福井市)の青木一矩(かずのり)、敦賀の大谷吉継ら西軍の諸大名がずらり顔を並べていた。
 利長は手始めに、小松城にこもる丹羽長重を攻めようとした。が、右近は首を縦に振らず、大聖寺攻めを進言した。堅城で知られる小松城の攻略に手こずれば、士気にかかわると考えていたのだろう。室鳩巣と新井白石が著した『白石先生紳書』によれば、人々は右近の深謀遠慮に感心し、「さすが老巧なり」と言い合ったという。
1652年に作成された「加州小松城之図」(部分、金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)。関ケ原の半世紀後の図だが、小松城が梯川に囲まれた要害の地にあったことがわかる
 前田勢は大聖寺城を3日で落とし、余勢をかって金津(福井県)に侵攻した。北ノ庄の青木一矩、丸岡城の青木忠元は利長に和を請い、北越前を平定し、いったん大聖寺城に戻った。右近の読み通り、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)の勢いであった。
 だが、ここから前田軍の迷走が始まる。利長は金沢城へ引き上げを命じ、小松城下の浅井畷(なわて)で、丹羽勢の猛攻を受けてしまうのである。前田軍があっさり引き返した理由は判然としない。▽敦賀の大谷吉継が海路金沢を攻めるという知らせが入った▽丹羽長重が領内に乱入した▽上杉景勝の煽動で越後堀秀治領に一揆が起き、支援を求められたなどの説があるが、どれも決定的な理由にはなりそうもない。
 金沢城への帰路、丹羽長重の襲撃を受けたのは不覚というほかないが、なぜやすやすと丹羽勢の奇襲を受けてしまったのか。『備前老人物語』には、浅井畷の合戦の前日、右近がこう言ったと伝えている。「長重は必ず明日、打ち掛けてくるだろう。だれが一番槍になるか」。右近は丹羽勢の襲撃を正確に予測していたのである。
 のちに右近は浅井畷の戦について聞かれ、あっさり失敗だったことを認めた。が、原因については黙して語らなかった。もしかすると右近の献策が用いられなかったのかもしれない。

 天下分け目の関ケ原の合戦で、前田勢はついぞ中原に鹿を追う動きは見せなかった。北陸でわずかに局地戦を展開しただけだった。だが、得たものは大きく、八十三万五千石から一挙に百十九万五千石の大大名にのしあがった。前田家謀叛の疑いがかけられたとき、家康から利長の監視役を頼まれた丹羽長重が領地没収(のちに常陸古渡一万石となる)の憂き目にあったことを思えば、歴史の皮肉というほかない。
 利家亡き後の動乱は、前田家における右近の立場を一層強固なものにした。慶長11(1606)年の前田家・家老連署奉書には、右近の名は筆頭にあり、利長の絶大な信頼を得ていたことがうかがえる。
浅井畷古戦場。この合戦で戦死したと伝わる9人の武将の供養塔が今も残る=小松市大領町
 日本全土に動乱をもたらした天下人・秀吉の死は、キリシタンにとって掛け値なしの朗報であった。布教を妨げる最大の障害が消えたのである。イエズス会日本報告集「1601、02年の日本の諸事情」は、関ケ原後の右近の動向をこう伝えている。
 「右近の懇請で、一司祭が(金沢に)派遣された。かの司祭はそこに1年以上滞在した。右近は彼が泊まるための何棟かの家屋と教会を建て、自費によりその生活を支えた。(右近が)示す芳香と模範はたいそう優れているので、彼は肥前殿(利長)とその御殿じゅうですこぶる重んじられている」
 教会では月5、6回説経が行われ、およそ260人が受洗した。ほとんどすべて身分の高い人々であり、うち60人以上が武士であったという。右近がまいた信仰の種は、加賀藩でも着実に実を結ぼうとしていた。

●〔浅井畷の合戦〕
 慶長5(1600)年8月7日夜、利長は大聖寺城から先発隊を加賀御幸塚城(現小松市今江町)に進軍させた。先発隊は7隊で編成され、右近は2番隊を指揮していた。軍議では、武士の意地を見せるため、敵を避けて迂回する道を選ばなかったと言われる。しかし、殿軍の長連竜隊が浅井畷(現小松市大領町)に差し掛かったとき、丹羽勢が襲いかかった。夜半からの雨で鉄砲隊が役に立たず、白兵戦を展開。長連竜隊は苦戦したが、前田軍の先発隊が引き返し、丹羽勢を追い返した。勝敗は付かず、双方痛み分けで終わった。

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