連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/10/08付)
〜400年前のドーナツ「環濠都市・金沢」を造る〜
土木、建築、工機開発も?

内惣構堀は今も金沢市内各地に形跡をとどめている。橋場町交差点付近、枯木橋は、東内惣構にかかる橋だった。この一帯は両岸の高低差も残り、400年前の構造がよくわかる。浅野川への注ぎ口には大きな松の木が植えられたという
 1598(慶長3)年、豊臣秀吉死去。翌、慶長4年閏(うるう)3月、前田利家没。徳川家康の天下取りは動かし難い形勢で同年8月、父利家の遺言を守らず利長は金沢に帰る。帰国を見計らったように「利長、家康襲う」の流言が広がり、9月から利長は横山長知(ながちか、高山右近も同行したとの説もある)を、家康の元へ2度も派遣して事実無根を訴えることになる。
 利家夫人の芳春院が人質となり江戸に行くことで、前田家が危機を脱出するいきさつは有名だが、これは翌1600(慶長5)年3月のことだ。徳川説得は半年もかかったのである。弁明の一方、金沢では右近が指揮して、慶長4年12月中旬から対徳川戦を想定して、城と城下の大改造に取り組んでいた。内惣構(うちそうがまえ)掘削と、新丸と呼ばれる大手門一帯の増築工事がそれだ。
 内惣構とは、城下にぐるりと堀をめぐらすことである。城郭本体だけではなく、町全体の性格を変えてしまう大工事だ。右近は、城を中心に西側と東側に分けて総延長約3キロ、いずれも浅野川に流れ出る構造の堀を造り、金沢はドーナツのような環濠(かんごう)都市に生まれ変わった。掘り込んだ土を城側に盛り上げて堤(土居)にし、頂部に竹などを植えて固めた。これで百間堀や白鳥堀に加えて、前線で敵をさえぎる強固な防衛線が構築されたのである。
 「金澤古蹟志(こせきし)」には、明治8年の尾山神社神門造営まで一帯に「土居」が存在したことが書かれている。現在も用水として市内各地に名残をとどめているが、掘削当時の惣構堀は幅、高さとも6―9メートルあったという。
 右近の取り入れた、この防衛都市構想は小田原攻めで学んだとみられる。北条氏の小田原城が20万ともいわれる秀吉の大軍を長期にわたり防いだのは、巨大な惣構(外堀)があったからである。
小田原市内西側に残る、日本を代表する惣構堀の遺構「小峯の大堀切」。幅20メー トル以上、土塁の法面傾斜は50度。「総堀」「総曲輪」
 日本の城下町の特徴は、西欧や中国のような町全体を取り囲む大規模な城壁や堀を持っていないことだという。近年の研究では反論もあるが一般的に言えば1590年ころまで唯一の例外が小田原で、広大な外堀を持つ城下町だったとされる。上杉謙信や武田信玄に攻められた体験から生まれたものらしいが、堀幅が20メートルから30メートル、土塁(どるい)の高さ約12メートルもある環濠が城下を守っていたという。
 小田原攻めに手を焼いた後、秀吉は聚楽第(じゅらくだい)を守る「万里の長城・ミニ版」のような巨大土塁で京都を囲む。徳川家康も広大な内堀で囲む城を核にした江戸の街建設を進める。そして金沢では利長の命によって、右近が惣構を築くのである。小田原攻めに加わった知恵者たちの、それぞれの教訓の活かし方だったのかもしれない。
 右近はこの3キロに及ぶ惣構をわずか27日間で完成させたと伝わる。不思議な話だが、数十の工区に分けて、それぞれの責任の武士を決めて競わせ、昼夜を問わぬ突貫工事で、暮れに始めた工事を正月過ぎには完成させてしまったといわれている。
 右近は企画設計者であり、技術者でもあり、組織者でもあった。フロイスの「日本史」や「信長公記(しんちょうこうき)」に出てくる右近の建築、土木に関する記述には興味深いものが多い。
兼六園下一帯の外総構の跡には、城郭と見間違う水路跡をみることができる。藩政期の城下はこうした環濠に囲まれ、現在とは異なる姿を持っていた
 まだ織田信長配下にいたころの鳥取城攻めで、右近は詳細な鳥取城の構図を写し取った図面を持ち帰った。これが攻略の強力武器となった。紀州を攻めた時には、立派な寺院を解体して、船で大坂にまで運ばせ教会に建て直したとある。大坂城築城では、輸送に1000人の人手を有する巨石を陸路1里(4キロ)、海路を3里も運ばせて大坂の住民らを驚かせた―。
 フロイスら外国人宣教師を驚かせたのはこればかりではない。右近が建材を手配すると材木は建設現場に届くまでにほとんど加工されていて、工区ごとに分けられた材料が一斉に組み立てられると瞬(またた)く間に建物が完成してしまうことだった。日本の木造工法の伝統なのだが、現代のプレハブ工法にも似た独特の知恵であり、石積み工法しか知らない宣教師らには魔法のようにみえたのだろう。
 右近が27日間で完成させた惣構堀も、おそらくこの建築工法の土木への応用ではなかっただろうか。見えないところでの準備が進行し、一端、工事が始まるとたちまちの間に出来上がってしまうように見せるのである。
 戦国期にはこうした築城の名手といわれる大名が何人もいる。高山右近のほかに、加藤清正、藤堂高虎(とうどうたかとら)など。明智光秀も「優れた建築手腕の持ち主」(フロイスの日本史)だったという。
 築城は、まず城を築く場所を選ぶこと=地選(ちせん)、地取(ちど)り=、どのような平面図を描き=縄張(なわば)り=、石垣や土塁の立体図も決め=普請(ふしん)=、その上の建物を設計施工=作事(さくじ)=する分業システムが確立されていた。「縄張り」と「普請」は今日でいえば土木部門であり「作事」は建築分野になる。築城の総指揮をとる大名は「縄張り」と「普請」までを担当し、「作事」からは大工棟梁の仕事とされた。
 ところが、数々のエピソードが示すように、右近は、しばしば「縄張り」「普請」から「作事」の顔まで見せる。さらに、小瀬甫庵(おぜほあん)の「太閤記」には秀吉の大仏建設現場に「南蛮ろくろ」と呼ばれる道具が登場して、「昔なら1000人を要した作業が100人でできるようになった」と書かれている。南蛮渡来の技術を知る右近がこうした最新技術を金沢の工事でも使った可能性は十分にある。右近は土木、建築から工機メーカーまでを1人で兼ねる「スーパーゼネコン」だったのではないか。
 今も金沢の街を歩くと、城の石垣や櫓(やぐら)の跡だけでなく用水や堀の水面、道路のカーブにさえ、400年前、この城下町のグランドデザインを描いたキリシタン武将のもうひとつの顔を、見ることができるのである。

●〔二重の惣構〕
 現在の金沢市彦三や近江町、橋場など市内を巡る用水跡や土居の竹やぶを意味する「藪の内」など旧町名にその構造までをしのぶことが出来る。さらに内惣構完成の10年後、外惣構が造られて金沢は二重の堀に囲まれた城下町として完成するが、城を核にして周囲を「の」の字型に用水と道路が囲む現在のドーナツ型の原型は、惣構掘削時に誕生した。また、惣構の内外で住む人々の身分区分が明確になるなど、惣構は明治まで金沢の街に様々な影響を与えている。


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