連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/10/1付)
利家死す 〜
勇殉教の夢かなわず 新たな敵・家康

前田利家の遺言状の写し。高山右近の人柄についても記している(部分、金沢市の篠原一宏さん所蔵)
  小田原攻めで華々しい軍功を立てた高山右近は、前田家中に確固たる地位を築いた。戦場で同じ釜の飯を食い、命を張った経験は、いつしか右近を客将という立場から、前田家の重臣へと押し上げていた。利家は、右近の性根をしかと見て取り、全幅の信頼を置くようになったのである。
 利家はのち遺言状に、右近についてこう記した。「世上をせず(世間に迎合せず)、我等一人を守り、律義にて、少しずつ茶代を遣わし、情けをかけられよ」。乱世を生き抜いた男の最大級の評価と言ってよい。
 小田原攻め以降、右近は活動の拠点を金沢城下から京へ移す。豊臣政権を支える利家が呼び寄せたのであろう。諸大名に顔が広く、茶人としても名高い右近は、前田家の外交官としても打ってつけだったに違いない。右近に対する畿内追放の処分は、利家の奔走により、事実上撤回されていたはずである。
 この時期、キリシタンへの風当たりは、かなり緩んでいた。秀吉はイエズス会の巡察師バリニャーノの訪問を2つ返事で受け入れ、行動の自由を保証したほどである。北条氏を下し、文字通りの天下人となった秀吉には、もはやキリシタン勢力は脅威の対象ではなくなっていた。
 大坂でバリニャーノと再会した右近は、こう語った。
秀吉が朝鮮出兵のため築いた名護屋城跡。玄界灘に沈む夕日が歴史のはかなさを感じさせる=佐賀県鎮西町
 「我らが主の最大の恩寵(おんちょう)は、権謀術数と危険な行いを必要とする関白殿(秀吉)の政庁の義務から私を解き放ってくれたことである。お蔭様で、今は何の支障もなく、精神上の自由を得て、尊き御主にご奉公し、無事息災に過ごすことができる」(イエズス会1590・1年年報)
 宣教師の報告書によれば、右近はバリニャーノに俗世間を捨て、家督を子に譲りたいと言った。秀吉の目が届かない金沢城下で、祈りの日々を送りたいと願っていたのだろう。しかし、バリニャーノは秀吉の死後、右近が大名として返り咲くことを願っていた。「キリシタンの大旦那(おおだんな)」として復権し、布教の先頭に立つよう右近を諭したのである。

 1592(文禄2)年、秀吉は諸大名に朝鮮出兵を命じた。右近は利家に従い、軍兵を率いて同年4月に前線基地の肥前・名護屋本営に布陣した。陣営は名護屋城に近い通称「筑前山」にあった。
 同年11月、利家はここに茶室をつくり、秀吉を正客に迎えた。茶会に際して利家は大掛かりな土木工事を行い、山腹を削って露地をつくり、茶室のしつらえや道具を吟味した。秀吉はこのもてなしを喜び、礼状に「満足申すべきことに候」としたためた。右近がこのとき秀吉にお目通りを許されたかどうかは定かではないが、この茶会を陰で差配したのは間違いないと思われる。
 右近はこの間、キリシタン追放令により、一時棄教していた蒲生氏郷をはじめ、多くの有力武将を信仰に導いた。大名クラスでは、京極高知(きょうごく・たかとも)、蜂須賀家政(はちすか・いえまさ)、津軽信枚(つがる・のぶひら)・信建(のぶたけ)兄弟らがそうである。前田家でも嫡男(ちゃくなん)利長を筆頭に、重臣たちにも洗礼を望む者がいた。右近が神父ペレスとともに金沢、能登を巡回した際には、200人以上が洗礼を受けたという。

 ところが、思いがけない出来事がキリシタンの春を冬に変えた。土佐の海岸に漂流したスペイン船「サン・フェリーペ号」の船員が訊問に際し、こう述べたことがきっかけだった。
 「スペイン国王は、征服したい国にまず宣教師を送り込む。住民の一部を改宗させたら、次に軍隊を送り込んで、改宗者と合同して征服する」
 この話は秀吉の耳にも入り、日本で初めてのキリシタン殉教事件を引き起こす。26聖人の殉教である。
大阪城内堀にかかる極楽橋から見た大坂城天守閣。秀吉はバリニャーノ一行をここで迎えた=大阪市中央区
 秀吉の命により、ただちに京のキリシタン名簿がつくられた。その筆頭には当然のように、高山右近の名が記されていた。
 右近は神父の処刑が決まったことを知ると、歓喜に震えた。自分もまた殉教の機会が巡ってきたことを直感したからである。右近は、伏見の利家邸に馬を走らせ、別れのあいさつをすると、形見として茶壷(ちゃつぼ)を贈った。
 だが、利家は既に秀吉をなだめ、右近を処刑させないように手を打っていた。利家は石田三成がキリシタン名簿から、右近の名を削ったことも知っていたはずである。利家は家臣の前で、右近の覚悟の見事さを褒めた。
 「ここにいる高山右近は誠に思慮深く、かつ傑出した人物である。その人となりは勇敢無双、教養ありまた廉直である。今、太閤の寵をこうむるとしたなら、全国一、二の大名となるであろうと信ずる」(フロイス「26聖人殉教記)
 利家の賞賛を、右近はどう聞いたか。主君への感謝の念と、殉教の機会を失った悲しみ。右近の胸中は複雑であったろう。
 それから3年後、秀吉はこの世を去り、その後を追うように利家も鬼籍に入る。思いがけず生き長らえた右近は、お家存続の危機に直面した前田家の屋台骨を背負い、新たな敵、徳川家康と相対することになる。

●〔前田家とキリスト教〕
 前田利家、利長親子はキリシタンに好意を持っていたといわれる。イエズス会資料には、利長が洗礼を受ける決意だったとする記述もある。「彼(右近)はこの国の領主(利家)およびその嫡男(利長)の大変な親友である。先だってこの嫡男は、(中略)デウスの教えを説く神父たちこそ、真の宗教家と聖なる人である、と公に言ったことがあり、またこの嫡男は自らもキリシタンになり、神父たちを領内に呼ぶことをたいへん望んでいるよし…」(フロイスの書簡)

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