連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/09/17付)
「生き地獄」八王子城 〜
勇猛果敢に「十字の旗」

八王子城「御主殿」跡。城主北条氏照の居館があったとされる。本丸とは別の山腹にある=東京都八王子市
 「日本キリシタン物語」(片岡弥吉著・昭和33年版)という子ども向けの本に、面白いことが書かれている。「むかしわが国では牛や豚の肉を食べませんでした」。ところが「高山右近は神父様や西洋人に知り合いが多かったのでときどき肉を食べていました」。友人の蒲生氏郷と細川忠興は牛肉が好きで「きょうもご馳走になろうと右近の屋敷に参りました」。
 右近はお祈りの最中で、その作法を見た二人は「大名がそんなことするのはおかしい」と笑ったところ「天主さまに祈ることもしないで威張っている人間ほどつまらないものはない。あなた方にはもう牛肉はご馳走しない」と右近は怒ってしまった。そこで「二人は謝ってご馳走してもらいました」。

 この話は天正十八年(一五九〇)年の小田原攻め陣中の出来事だったと「近世日本食物史」にあり、そこでは「(右近は)ことのほか腹をたて七日も八日も物も言わず」、蒲生氏郷は牛肉を食べさせてもらえなかったのだという。
 他愛のないつくり話といえばそれまでだが、小田原攻めで右近、氏郷、忠興と、キリシタンに関係する三人が登場する話は、背景を考えてみると興味深い。秀吉が、天下統一の仕上げとした関東攻めは、フロイスの「日本史」によると二十万ともいう秀吉軍が攻め寄せ、凄惨(せいさん)な戦いの末に北条氏政を滅ぼした。その主力部隊にこの三武将がいたからである。
 右近は、金沢に身を寄せ、伝道と茶道一筋に生きる覚悟だった。が、関東攻めに従軍するため、わずか一年余で平穏な暮らしは中断され、再び戦場に身をおくことになったのである。
 「自分としては、政庁の煩わしさの中で生きるよりも静かに隠退(いんたい)し、ひとり安らかに余生を過ごしたいのだが」「妻子ならびに両親のことを思えば自分の考えを貫くわけにはいかない」(フロイス「日本史」)と、右近は後に、巡察師に金沢での心境を書き送っている。まるで今日のくたびれサラリーマンのぼやきにも似た心情の吐露、といってもいいだろう。
 ところが「安らかに余生を」とつぶやいたはずの右近は、いったん戦場に出ると、持って生まれた血が騒ぐのか「猛烈社員」に一変するのだった。

「御主殿」に入る手前の深い谷間に掛けられた木橋。対岸の平たいところが御主殿。敵に攻められた時にはこの橋を落としたという堅牢なつくりだが、利家軍は一日で落城させたという=東京都八王子市
 関東攻めを命じられた前田利家軍は越後の上杉景勝(かげかつ)とともに、小田原を北から攻めた。金沢を出た利家軍は岐阜を経由して長野に入り、三月、碓氷(うすい)峠を越えた。現在の群馬県、埼玉県の各城を次々と落とし、八王子城から小田原を囲む秀吉軍に合流した。この間、右近は十字の旗を掲げ華々しい軍功をたてたという。「追放者としては考えられないこと」(海老沢有道著「高山右近」)だった。
 中でも、八王子城はわずか一日で落とした。それまでの利家軍の北条軍に対する温情を秀吉が怒ったため、利家軍は「なで斬り」にせんばかりの猛攻で、城に立てこもった女性、子どもも集団自決する「地獄」だったという。八王子城周辺で前田利家や高山右近は、今もって血も涙もない悪役扱いなのである。
 しかし、小田原城はよく持ちこたえた。西から秀吉本隊、東からは徳川家康軍、北部からは蒲生氏郷や宇喜多秀家ら諸武将、南の相模湾にも軍船が押し寄せたにもかかわらず、百余日も抵抗が続いたのである。「小田原評定(おだわらひょうじょう)」の言葉を残したように最後は延々と話し合いを続け、七月になって城を明け渡すが、驚異的な戦いだった。
 長期戦を覚悟していた秀吉は、小田原西郊外に築いた城に側室の淀君を呼び、本阿弥光悦、千利休、舞の幸若太夫(こうわかだゆう)まで招き、戦いの合間に遊興を催していたという。一方の北条方も、四方包囲されながら広大な惣構堀(そうがまえぼり、外堀)の中では、城下町民が祭りを開いていたという話も伝わっている。右近と氏郷の「牛肉の逸話」も、こうした当時の戦場風俗を背景に生まれたものかもしれない。

現在の小田原城。広い内堀が残るが、強大な秀吉軍を防いだ当時の城は現在の十倍はあったという=近年復元された銅門(あかがねもん)
 現代のわれわれにはなかなか理解できないが、凄惨な戦いの一方で、遊興が繰り広げられるのもまた、戦国の人間模様の一つだったのである。その時代時代の不可解さは、右近の人生がそうであるように単純に割り切れるものではなく、割り切ろうとすることに無理があるのではなかろうか。
 キリシタン研究に大きな足跡を刻んだ松田毅一氏はこう書いている。右近は戦いにおいて「あるときは勝ち、あるときは敗れながら、忠実に自己の信念を守りぬいた人」(南蛮遍路)である。「あたかも彼が、群雄並び出た戦国時代において、非凡の勇将であったかのように考えることは大いなる誤りである」と。

●〔北条攻め〕
 秀吉に最後まで従わなかった北条氏の居城、小田原は上杉謙信、武田信玄にも攻められた歴史をもつが二度とも撃退しているほど強固な構えで知られた。東北の伊達政宗もこの戦いまで、正式に秀吉に従わず、従軍が遅れ、小田原には処分覚悟の白装束で秀吉の前に現れたという。利家軍に加わった高山右近は勇猛な戦いぶりで、利家はわざと右近の戦いぶりを秀吉にみせ、公式に赦免を図ったらしいが、秀吉からは声がかからなかったという。

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