連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/08/20付)
加賀へ 〜
「耶蘇寺の一カ寺下さらば」「文化の時代」見越した利家

 天正16(1588)年秋、金沢城下にわずかな供回りを連れた武士が足を踏み入れた。伴天連(バテレン)追放令から1年余り。流浪の旅を続けていた高山右近とその家族である。
 右近一族が金沢へ来た正確な日は分からない。この年の5月、小西行長が肥後に転封となり、右近もいったんは肥後に下っている。その折、右近に会ったイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリエは、年報に右近の印象をこう記した。
 「大領地を失った人なのに、少しもみじめなところもなく、前より満足げに喜々としていた。(中略)右近殿の立派さはたとえようもなく、彼にとって領地は取るに足らぬものであった。だが、より驚嘆に値することは、彼が苦痛と貧困の追放に耐えた忍耐と、快活さ、我らの主なるキリストにある希望の生活である」
福井県を嶺南、嶺北に分ける木ノ芽峠。古くから京と北国を結ぶ要衝の地であった。加賀へ向かう右近の一行もこの峠を通ったと思われる=福井県今庄町
 伴天連追放令の後、コエリエは有馬晴信ら九州のキリシタン大名に武器の提供を申し出、秀吉への敵対を要請するなど、聖職者らしからぬ動きをしたことがある。右近はコエリエの無謀な振る舞いが気がかりだったのだろう。コエリエに対して、目立たぬ服を着て、控えめに活動するよう忠告したという。
 肥後に下った右近は、しばらくこの地に滞在したあと、行長に別れを告げて大坂へ出た。秀吉が右近に会いたがっていると聞いたからである。もはや秀吉の勘気が解けた、と言いはやす者もいたが、行長はじめキリシタン関係者は秀吉の策略であると考え、こぞって引き留めた。行長は、隠世費として2万石を与えると申し出ていた。
 しかし、右近があえて大坂へ向かったのは、このまま行長の庇護(ひご)を受けていれば、行長に災いが及ぶ可能性があること、小康状態を保っているキリスト教への風当たりがまた厳しくなりかねないことを怖れた。いかなる運命が待ち受けようとも、右近は「神の意志」に黙って従う心境だったのではなかったか。
 大坂に姿を現した右近に、秀吉が直接会ったという記録はない。面会を求めた者がいるとすれば、おそらく前田利家である。『寛永南島変』には、利家が右近に「金沢へ来たりたまえ。3万石ばかり合力すべし」と勧めたとある。『混見摘写』にも、利家が秀吉に「武功の士であるから少ない知行ででも召し抱えたい」と言上して許された、と書かれている。
 イエズス会年報(1591・2年)には、秀吉の弟秀長が右近を畿内追放とした上で他国内での自由を与え、利家がすかさず召し抱えたいきさつを伝えている。いずれにせよ、秀吉の勘気が緩んだのを見て取った利家が右近のために奔走したのは間違いない。右近は利家からの誘いに対して、「禄(ろく)は軽くとも苦しからず、耶蘇(やそ)寺の一カ寺建立下さらば参るべし」(寛永南島変)と答えたという。
 利家は右近を「武勇のほか茶湯、連歌、俳諧にも達せし(人)」(六本長崎記)と評していた。秀吉の天下は揺るぎなく、戦国動乱の日々は過去のものになろうとしていたころである。やがて茶の湯に代表される「文化の時代」が来ることを見越して、利家は右近の素養と才能を得たいと考えたのかもしれない。
 天正16年といえば、北野大茶会が催された年である。利休や弟子の山上宗二、堺の今井宗久、京都の本阿弥光二・光悦親子との交流を通して、利家の茶の湯への関心は深まるばかりだった。武家の社交はもはや茶会抜きには考えられない。そう先々を見通したとき、茶人として名高い右近は、得がたい人材に見えたことだろう。
 さらに想像をたくましくするなら、右近は嫡男利長の補佐役に最適だった。利長は利休に茶を学び、細川忠興(ただおき)、蒲生氏郷ら同門の数寄大名と仲が良かった。利休七哲の1人である右近は同様に忠興、氏郷と親しく、忠興夫人と氏郷は右近の影響で洗礼を受けている。利長と右近は利休を通じて交流があり、共通の極めて親しい知人を持っていたのである。利長より10歳年上の右近は、利長のよき相談相手になると、利家が考えても不思議はない。
 こうして右近は前田家の客将となり、金沢へ赴いた。父親の飛騨守、母親マリア、妻ジュスタ、長男ジョアンも同行したはずである。北国街道は九州や畿内とは違って、加賀・能登・越中は宣教師による布教が一度も行われたことのないキリスト教未踏の地であった。右近はむしろ、それを好ましく思ったのではないか。
 イエズス会年次報告書は、加賀・能登・越中を「北国(ホッコク)」と表記し、右近の動静を伝えている。右近一族の来訪とともに、北国にはじめてキリスト教の種が蒔(ま)かれ、やがて小さいながらも美しい花を咲かせることになる。

●〔利休七哲〕
 表千家四世が書いた「江岑夏記(こうしんげがき)」は利休七哲として、蒲生氏郷、高山右近、細川三斎(忠興)、芝山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部の名を挙げている。一般に利休七哲はこの7人を指す。荒木村重、織田有楽斎などを入れる異説もあり、「茶道四祖伝書」は前田利長を筆頭に置いている。いずれの書においても高山右近、細川三斎、芝山監物の3人の名は必ずあるといわれる。


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