連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/08/06付)
中国征服計画 〜
僧衣の下に隠された鎧 「サムライを派兵せよ」

三池カルタ記念館に展示されている、ポルトガル人が船中でカルタを楽しむ様子を再現したジオラマ
 世界史に言う大航海時代、西欧の超大国だったポルトガルとスペインは、世界を二分する領土分割線を定めた。アフリカ大陸の西に南北線を引き、これより東側で発見された島や大陸はポルトガル領、西側はスペイン領とする身勝手な取り決めである。これを「トルデシリヤス条約」という。
 東回りと西回りで始まったポルトガルとスペインの領土拡張競争は、やがて地球をひと回りし、東アジアで衝突する。トルデシリヤス条約では明確になっていない東アジアの権益をどちらが得るかが焦点になった。
 豊臣秀吉が天下を手中に収めたころ、既に新大陸はスペインの専有下にあり、インドや東南アジアの権益はポルトガルが握っていた。残された「蜜の流れる地」は、イスラム諸国を除けば東アジアの2つの大国、世界有数の銀の産出国であった日本と、高度な文明を背景に巨大な富を有する中国だけといってよかった。
 世界史の規模で眺めたとき、秀吉の伴天連(バテレン)追放令は、ポルトガルとスペインの野望を打ち砕く鉄槌(てっつい)であった。宣教師たちは、両国の領土拡張競争において、実質的な水先案内人の役を果たし、植民地化に手を貸していたからである。実際、アジアに進出したイエズス会宣教師たちは、スポンサーであるポルトガル国王やスペイン国王あてに、日本や中国の武力征服の可能性について、現地駐在武官さながらの詳細かつ具体的な報告書をしたためている。

ポルトガルが日本との交易に使った「ナウ型帆船の模型」(大分県臼杵市役所所蔵)。宣教師もこれに乗って来日した。日本人奴隷も運ばれたという
 イエズス会東インド巡察師の肩書を持ち、日本に3年滞在したアレッサンドロ・ヴァリニャーノはフィリピン総督に書簡で「日本人は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服できない。だが、中国を征服するとき、日本は時とともに、非常に益することになるだろう」と書いた。
 日本布教長だったカブラルは、スペイン国王にあてた書簡で「多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で中国を征服できる」と断じ、「これだけの軍勢や軍艦が調達できない場合は、日本に駐在しているパーデレ(神父)たちが容易に2、3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるであろう。彼らは大変勇敢な兵隊であり、わずかな給料で陛下にご奉公するだろう」と記している。
 宣教師たちは、日本の武力征服は無理でも、戦国動乱に慣れた日本のサムライをもってすれば、中国の征服は可能だと見ていた。勇敢な日本人を傭兵のごとく扱い、中国を占領する。その先兵として脳裏に描いていたのは、キリシタン大名だった。日本のキリシタン大名が大勢力になれば、日本人をして日本人と戦わしめ、スペインがキリシタン大名を支援するかたちで日本を支配下に置くことも可能と考えていたはずである。
 秀吉が当時の世界情勢をどこまで掌握していたかは不明だが、宣教師たちの振る舞いに危険なにおいをかぎとったのは間違いない。事実、ヴァリニャーノは、秀吉の伴天連追放令は、カブラルの後を継いで日本準管区長の職に就いたガスパル・コエリエの「思慮を欠いたある種の軽卒な振る舞いが非常で重要な契機」となったと非難し、次のように記している。

福岡県大牟田市の三池カルタ記念館が復元した「天正カルタ」。南蛮ブームは、伴天連追放令後も長く続いた
 「天正14年、大坂城でコエリエが秀吉に九州遠征を要請した折、秀吉は中国侵攻を暗示した。このとき、コエリエはポルトガル人から2艘(そう)の大船を世話することを約束した。コエリエは翌年、博多へ来た秀吉を、大砲を装備したフスタ船に乗って訪ね、船内をくまなく案内した。秀吉は優れた装備に感嘆し、『これは軍艦である』と叫んだ。右近と小西行長は、コエリエの振る舞いによってキリスト教界が危険にさらされることを怖れ、コエリエに対し、このフスタ船を秀吉に献上することを勧めたが、コエリエはこれを断った」(要約)
 秀吉はコエリエの僧衣の下に隠された鎧をはっきりと見た。伴天連追放令が出されたのは、この直後のことである。

●〔ガスパル・コエリエ〕
 伴天連追放令が出された当時、イエズス会の日本における最高責任者だった。追放令後、キリシタン大名の有馬晴信に武器の提供と引き換えにして、秀吉への敵対を呼びかけた。また、フィリピン総督に日本への派兵を要請したが、いずれも実現しなかった。集めた武器弾薬はひそかに売却されたという。

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