連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/07/23付)
小豆島 〜
一族と瀬戸内海を西東 小西行長の領地を転々

海を見下ろすオリーブ園には白亜の巨大な十字架がそびえる。十字架は昭和62年、小豆島のキリスト教伝来400年を記念し島の有志により建立された。小西行長ら一行が当時、島に教会を建設しようと高さ15メートルの大十字架を建てたとされる故事をイメージして造られた=香川県小豆島南側の内海町西村
 名作「沈黙」でキリスト者の苦悩を描く一方、狐狸庵(こりあん)シリーズのぐうたらエッセーでも人気のあった作家遠藤周作氏は「強虫と弱虫と―」という表現で、高山右近について書き残している。
 キリシタンに例を取れば、信仰を貫く強い者と、迫害や弾圧に負ける弱い者がいて、キリシタン大名に当てはめれば「強虫」は高山右近であり、「弱虫」は信仰を捨て、あるいは捨てたふりをした小西行長(1558?―1600)などということになる。「強虫と弱虫」は人間の本質を突く文学的テーマとして展開していくのだが、遠藤さんは同じキリスト教信者として、強虫の右近に「畏敬(いけい)の念はぬぐえない」としながらも「ぐうたら好きの私は、右近のような強虫には、とてもなれそうになく」「距離を感じつづけてきた」(「こころの風景・戦国夜話」)と書いている。
 1587(天正
15)年、博多出陣中の秀吉が出した「バテレン追放令」は、遠藤さんの言う「強虫・右近」と、「弱虫・行長」のような図式で、キリシタン大名を色分けすることになった。だが、両者の足跡を見ていくと、歴史はそれほど単純に人間を「強虫と弱虫」に二分していない。博多湾の能古島に逃れた右近は、そこから淡路島や小豆島、九州各地を転々とするが、すべて小西行長の領地と関係する場所に誘導されている。秀吉の命令を一蹴した「強虫・右近」の逃避行を支えたのは、「弱虫・行長」だったのである。秀吉の棄教令に従うように見せて、影では堂々と同志を守り抜いた行長その人も、相当の「強虫」だったのではなかろうか。
 右近が能古島にいた期間はそれほど長くはなかったと見られている。領地を没収された一族の動揺や離散の経緯を外国人宣教師らが記録していたため、詳細に当時のことが分かるのである。
島中央部の池田町中山地区の千枚田。藤井さんは右近潜伏地を中山周辺、オルガンチノ潜伏地を土庄町肥土山地区(写真奥)と推定する
 この時期の右近の動向を主に書き残したのは、イタリア生まれのアントニオ・プレネスチーノという大坂から明石に派遣されていた宣教師の1人で、イエズス会に送った「1587年10月1日付書簡」(「
高山右近の研究と史料」ヨハネス・ラウレス著から)が知られている。
 右近追放の一報が明石に届いたのは追放令から数日後、西暦1587年の7月末だった。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然(きぜん)として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたという。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」と、泰然としてむしろ満足気にさえ見えたという。しかし、2千人近くもいたという明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは酷なものだった。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく「真夜中まで街中を駆け回るありさま」だったという。
島の墓地には「蘭搭(らんとう)さん」と尊称される家形石室が見られる。小豆島きりしたん研究会は調査で1000個以上を確認し、禁教下に当時のキリシタンが教会に見立てて拝んだ遺物ではないかとみている=小豆島西側の土庄町宝生院
 ここにも「強虫」と「弱虫」がいて、多くの弱虫は、1人の強虫が信念を貫くために、路頭に迷い、右往左往するばかりだったに違いない。
 明石の高山一族はその夜のうちに海峡を渡り、対岸の淡路島に逃れた。国外退去を指示された何人かの外国人宣教師も行動を共にした。能古島を出た右近も明石に寄らず直接、淡路島に向かって一族に合流。さらに播磨の室(現・兵庫県室津か)にひそかに結集、小西行長の
領地である小豆島に渡ることになった。
 行長は日本にとどまることを決意した宣教師オルガンチノや日本人信者約50人、さらに九州にいた宣教師らをかくまう決意をし、小豆島に隠れ家を用意した。オルガンチノの隠れ家は山中の一軒家で、右近の潜伏地はそこからさらに数キロ奥に入った場所だった。港からその山中に入る道の途中には、行長の配慮で信者の部下が配置され、入り口を守るように警備した。
昭和51年の土砂崩れで出土したマリア観音像。現在はガラスをはめ込んだ蘭塔型の石堂内にまつられている=小豆島の内海町日方
 小豆島はこうして九州北部とともに、隠れキリシタンの地として400年余の歴史を刻むことになる。が、右近らが潜伏した翌年の1588年閏(うるう)5月、行長は秀吉によって肥後に転封され小豆島を失うことになる。肥後の新領地「宇土」は24万石。予想外の栄転であり、職を失った右近の旧臣らを迎え入れることもできたという。
 右近は再び九州に向かった。現在の熊本県内に隠れ住んでいたらしいが、具体的な地名はわかっていない。九州博多に始まった右近流浪の旅は1年余を経て再び九州肥後から急展開を見せ、その年1588(天正16)年の夏近く、右近は突然、大坂に現れる。前田利家との再会が待っていた。

●〔潜伏の地〕
 「二十四の瞳」で有名な小豆島は、現在は四国・香川県になっているが、明治までは本州側、備前の領地だった。右近ら一行が渡ったことで、以後キリシタンの島としても知られ平成2(1990)年、全国潜(かく)れ切支丹研究大会が同島で開かれた。「小豆島新聞」の社長であり編集長でもある藤井豊氏は、小豆島きりしたん研究会会長も務め、島内の関係遺跡の調査や、高山右近の足跡にもくわしい。

[戻る]