連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/07/16付)
―能古島―
潔く信念貫き、流浪の旅が始まる 博多湾孤島に身を隠す

 博多湾の夕暮れ。右近が潜伏したという能古島が暮れなずむ空に浮かぶ。手前は福岡ドームや博物館、福岡タワーなどが立ち並び、再開発地帯の象徴と言われる一帯(シーホークホテル&リゾートから撮影)
 小松発福岡便は、博多湾上空から高度を下げて着陸態勢に入る。湾の左手下には「金印」の出土で有名な志賀島(しかのしま)、右手には元寇(げんこう)の役で知られる能古島(のこのじま)。左右2つの島をのぞみながら、ビルの連なる福岡市街地をかすめるように空港に滑り込む。
 志賀島は日本の国宝第1号「漢倭奴国王」金印の地として著名だが、キリシタンの歴史を旅する者にとっては、能古島に目をやらねばならない。秀吉のバテレン追放令を受けた高山右近が信仰者の信念を貫くため流浪の旅に出て、最初に渡った記念すべき島なのである。
 1587(天正15)年、西暦で7月24日の夜というから、奇しくも今からちょうど415年前になる。博多箱崎の陣にあった秀吉が出した右近追放令は、どこか未練がましいものだった。追放といいながら、右近が棄教命令に従えば領地を安堵し、主従関係を元に戻す、という思いがにじんでいた。
 恐らく右近は折れるだろう、少なくとも表面上はそうするだろうと、秀吉は見ていたに違いない。一晩に3度も右近に使者を送り、詰問とも説得ともつかぬことを繰り返すのである。
 最初の使者は、まず棄教を迫る文書を伝え、右近の神社仏閣破壊を糾弾した。右近は答えた。
 「予はいかなる方法によっても、関白殿下に無礼のふるまいをしたことはない。予が高槻、明石の人民をキリシタンにさせたのは予の手柄である。予は全世界に代えてもキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。ゆえに予は領地、並びに明石の所領6万石を即刻殿下に返上する」(「キリシタン史の新発見」プレネスチーノ書簡から)
 右近の強い意志を知った秀吉は時間を置かず第二の使者を出す。陣営にいた右近の茶道の師、千利休が使者に選ばれたことでも分かるように秀吉の思いは強かった。利休の伝えた内容は「領地はなくしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものであった。秀吉は、振り上げた拳の下ろしようがなくて、最大の譲歩を見せたのだった。
 が、右近はこの譲歩案も謝絶した。「彼宗門 師君の命より重きことを我知らず。しかれども、侍の所存は一度それに志して不変易をもって丈夫とす 師君の命といふとも 今軽々に敷改の事 武士の非本意といふ」。
 能古島にあった小さなカトリック教会。島の北部、森の中に隠れるように建っていた=福岡市西区能古島
 金沢市近世資料館に残る「混見摘写」という書物には、右近が師である千利休の説得をこう言って謝絶し、信仰を貫いたと書かれている。つまり「キリシタン信仰(宗門)が、師(茶道の師利休)、君(秀吉)の命(棄教令)よりも重いかどうかは今は分からないが、いったん志したことを簡単には変えず、志操堅固であることが武士の心意気ではないか」というのである。
 右近追放の報は、半日で博多中の武将に広まった。秀吉の命に従うよう説得する者も少なくなく、右近はその誘いからも逃れるために身一つとなって博多湾に浮かぶ能古島へ逃れる。信仰を守るための流浪の旅の始まりだった。
 右近はこの後、能古島から淡路島や小豆島へ。さらに備中から、九州の宇土、島原半島の加津佐、有家など瀬戸内海から九州の有明湾周辺の地を転々とするのである(「九州キリシタン史研究」ディエゴパチェコ著)。
 宗教者の志操堅固とは、排他性、独善性、不寛容さと紙一重かもしれない。右近の寺院破壊は行過ぎたとの見方もされている。だが、その身の処し方、潔さはやはり驚嘆に値するといっていいだろう。
〔右近から陽水まで〕
 能古島は周囲12キロ。人口800人の小島で、奈良時代には防人が置かれた古い歴史を持つ。元寇の役には完全制圧された悲劇も。直後の強風で元軍が全滅した時は何千という兵士の遺体で浜が埋まったといい、以後しばらくは無人島となった時期もあったらしい。右近が隠れ住んだ16世紀以降江戸時代にかけて開発も進み、現在は対岸の福岡市街とはフェリーで結ばれている。最近では作家の壇一雄が晩年を過ごし、歌手の井上陽水の名曲「能古島の片思い」でも知られている。

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