連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/07/02付)
船上城 〜
九州制圧の要、明石海峡を見張る 秀吉との歴史的会見セット

夕暮れの明石城から市街を経て明石大橋を見る。右端対岸の淡路島は目の前で、海峡というより川のようだ。徳川時代初期、小笠原氏によって造られた明石城は、古代の古墳のあった丘を利用して築城されたらしい
 1585(天正13)年8月、高山右近は高槻から播州明石に国替えとなった。2年前の賤ケ岳(しずがたけ)の勝利で、ほぼ天下を手中にした秀吉は関白となり九州制圧を狙っていた。難波に大坂城、京都には聚楽第を築いて畿内を固め、いよいよ西国進攻に向けての人事に着手したのである。
 明石は石高6万石(一説には12万石)。高槻4万石(同7万石)の5割増しで破格の厚遇といわれた。だが、右近にとっては複雑な思いの国替えだったろう。親子二代にわたって強力に布教し、領民の大半をキリシタンに改宗させた高槻を離れることは、布教を一からやり直すことを意味していたからである。それでも右近はこの年33歳、秀吉の強力な保護のもとで行った布教に自信を持ち、新たなる土地での布教に使命感を感じていた。明石に移るに際しては、高槻に残ることになる信者の保護を秀吉に約束させるなど着実な手を打ち、明石に入った。
 明石は大阪湾の奥にある大坂城を守り、瀬戸内海に向かう船を監視する「海の関所」だった。中国・九州の勢力が大坂を攻めるとすれば、海路なら播磨灘(はりまなだ)から明石海峡を通るしかない。陸路は狭い。秀吉の右近に対する軍事的期待感は明らかで、右近の明石転封のために200隻の船を与えたという(フロイス「日本史」)。
船上城跡の森の中はお稲荷さんがあった。近くの農家の人達には「高山右近のお城」という言い伝えが残っている
 今日の明石市街は海と山に挟まれて細長く続く海岸一帯に国道2号(旧山陽道)が走り、山側に明石城が位置する。現存する明石城は江戸時代に築城されたものだが、右近は海峡の関守らしく、海沿いに城を造った。その名を「船上(ふなげ)城」という。
 戦国末期の明石―姫路―三木城など播州の城郭を良く知る人が金沢にいる。尾山神社神門修復管理事務所の小林純夫所長(文化財建造物保存技術協会所属)だ。1997(平成9)年の阪神大震災で崩れた明石城修復にかかわった日本建築・城郭研究者の1人である。
 「明石の城は海峡を見張るためにあった。江戸時代に築かれた明石城も海岸線に沿って平行に石垣が築かれ、櫓が建てられている。窓は海に向かってだけ造られている変わった城だ」。まして「右近の築いた海岸近くの船上城は、文字通り海に目を向けた城だった」と小林さんは言う。
 明石転封の翌年春、右近は明石港で南蛮船を迎えた。日本キリシタン界のトップであるイエズス会日本副管区長のガスパル・コエリエが長崎を発ち大坂へ向かう途中に寄港したのである。宣教師オルガンチーノも出迎え、さらにフロイスが合流した。
 当時の日本滞在中のバテレン集団の最高メンバーが勢揃い、そこに日本人キリシタンの指導者、右近が加わり大坂城で関白秀吉と対面を果たすのである。イエズス会年報には西暦1586年5月4日、歴史的会見は開かれたと記されている。
 大坂城に入ったバテレン一行は約30人、迎える秀吉の側近の中には前田利家や細川忠興らもいた。フロイスの「日本史」によると、最初ははるか遠く、正面に着座する秀吉は顔もはっきりみえなかったという。やがて利家ら日本側の諸侯は別室に下がった。右近については「汝(なんじ)はキリシタンだからバテレンのそばにおれ」と秀吉が命令。一時は座を立って1メートル近くまで接近し、加えて会談の後には自ら城内を案内してくれたという。一同の驚きは大きかった。
右近の築いた船上城跡。明石市西郊外、明石警察署や民家に囲まれた田んぼの中に円墳のように残っている。開発から残された奇跡的な遺跡である
 秀吉の、異例のもてなしで始まった歴史的会談は高山右近がセットした一世一代の舞台のようでもあった。
 が、実はこれが悲劇の始まりだった。会談ではキリシタンの布教が、侵略ともとられかねない微妙で重要、かつ危険な会話がイエズス会幹部から出され、秀吉は秀吉で朝鮮出兵をにおわせ、互いの脳裏に何かが刻み込まれることになるのである。
 対面した中の1人、前田利家は、右近とキリシタン一行をどう見ていたのであろうか。わずか1年後、秀吉から追放される右近を加賀に招くことになるが、この日この場面に伏線があったはずなのである。

●もう一つの「真宗王国」
 「真宗王国」を名乗るのは加賀だけではない。兵庫県の播州播磨もその1つである。「真宗がうみだす沈思形の精神風土から加賀が西田幾多郎、鈴木大拙の二大思想人を生んだように、播磨にも三木清、和辻哲郎らがうまれている」(「播州気質」神戸新聞社編)と言う。播州三木(現兵庫県三木)は、秀吉に攻められ、多くの兵士が飢え死にした悲惨な籠城記録を残しているが、そこまで徹底して秀吉軍と戦ったのは、真宗教団の一大門徒勢力の支えがあったからともいう。明石は「真宗王国」播磨の首根っこを押さえる前線基地であり、右近転封のもう1つの狙いがあったともいえる。

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