連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/06/18付)
一向一揆と十字軍 〜
「東西文明の衝突」を体で受けた右近 今とは次元の違う戦争観

 安土城下「松原の辻」に天正8(1580)年、加賀一向一揆のリーダー19人の首がさらされた。「信長公記(しんちょうこうき)」によると鳥越城にこもった鈴木出羽守、若林長門守(ながとのかみ)らの首で「信長公のご満足はひとしおであった」と記されている。
 一向宗との戦いは武士1人に対し農民10人が死んだとまでいわれている。それでも10年余にわたる戦いとなったのは、一向宗徒の、命を惜しまぬ戦いにあり、信長軍が何千人もの農民を殲滅(せんめつ)する攻撃にでたのは、念仏を唱えて突き進む一揆軍に対する恐怖の裏返しでもあったとみられている。
鳥越の一揆リーダーの首がさらされた安土城下の松原の辻(現在の安土町松原とはずれているという説もある)
 長く凄惨(せいさん)な戦いだっただけに、一揆勢にとどめを刺す鳥越城の陥落は、信長にとって記念すべきことだった。だからこそ安土城の足元「松原の辻」にリーダーの首を特別にさらし、歴史書も特筆しているのである。
 加賀の一向一揆と言えば、作家の永井路子さんは昭和40年代に北國新聞が連載した「加能女人系」に出てくる1人の土豪の妻の物語が印象深いと言い、こんな話を紹介している。
 「すすめすすめ、敵陣へ進む足はそのまま浄土へ進む足じゃ。もし万一退却するようなことがあればその足は、すなわち地獄へいく足じゃ」と一揆のリーダーは農民を叱咤(しった)した。朝倉勢との戦いで不利となった時、リーダーの1人は加賀に退却したが、一方で、その言葉通りに奮戦して戦死した土豪がいた。松任の玄任といった。残された女房は帰国した僧侶のもとに行き、声をあげて泣いた。僧侶が慰める。「教えを守った玄任殿は極楽浄土間違いなし。さ、泣くのをやめて冥福(めいふく)を祈られよ」。
 すると女房は、夫のために泣いているのではないと言う。「逃げる足は地獄へ行く足-坊様はまちがいなく無間地獄(むげんじごく)へおちておしまいになります。それがおいたわしくて泣いているのでございますよ」(「日本史にみる・女の愛と生き方」)
 この痛烈な皮肉は、戦争指導者の中にいた「まやかし坊主」と、犠牲になる兵士の哀れさを象徴するが、土豪たちは真に仏のためにと思って命を投げ出し、殺生をも厭(いと)わなかった事実を伝え、さらには「一向一揆は、下からの抵抗にみえるが、その実、内面にさまざまな問題を含んでいた」(同書)ことも指摘している。
 当時の日本の殺戮(さつりく)の日々を巡察師ヴァリニァーノは以下のように書き残している。
 「日本人は、はなはだ残忍で、軽々しく人間を殺す。些細(ささい)なことで家臣を殺害し、人間の首を斬る」「戦乱の際には民家を焼き民衆を殺戮しその偶像の寺院といえども容赦しない」「立腹したため、あるいは敵の掌中に落ちないために自ら腹を断ち切って自害することも容易に行う」(「日本巡察記」第2章)。
 イタリア人ヴァリニァーノはこう書いているが、西洋のキリスト教国が大量殺戮の戦争史を持っていないわけではもちろんない。よく知られたように、聖地奪回をスローガンにした中世の十字軍が一種の征服戦争だったことは歴史の定説となっている。キリスト教以外の異教徒は、「キリスト教世界の支配に無条件に屈服し、洗礼を受け教会の教えに従うか、それとも殲滅されるか」という考えが中心となって、11世紀末から200年にわたってイスラム教徒と凄惨な戦いを展開し、残虐行為も繰り返したのである。(高尾利数著「キリスト教を知る事典」から)
 ヴァリニァーノは多分、信長の一向宗や比叡山との戦を知って書いたのだろうが、キリシタン武将右近は、まぎれもなく、その残虐行為の横行した戦国日本に生まれ、一向宗とも戦った織田軍団の一員だった。数々の戦闘では人を殺めることに躊躇(ちゅうちょ)しなかっただけではなく、自分の領地の高槻や明石などで布教のために、仏教寺院破壊を断行している。まるで十字軍の論理を背負った、という言い方さえできるかもしれないし、右近は東西文明の衝突を一身に受けたかのようであるともいえる。中世の戦争観は、現代とは次元の違いがあったとみていいだろう。
 信長と秀吉の違いのひとつは、秀吉がキリシタンの布教拡大に、より大きな警戒と疑問を持っていたことだった。一向宗との戦いにキリシタン集団を最大限に利用し、理解を示し、右近を側近において戦いには重用しながらも、猜疑(さいぎ)心は深まっていくのである。
 一向宗の団結と信念が、天下取りにいかに邪魔であったかを痛いほど知っていたからである。主君よりも神のために戦うキリシタンの論理が、ある意味で一向一揆集団と似たものであることを、秀吉は直感的に感じ取っていたのかもしれない。
 一向宗壊滅のために信長と秀吉に登用されたキリシタン武将・右近は、一向一揆撲滅が完了した時点で、逆に危険な存在になっていたのである。


●〔寺院破壊〕
 高山右近の寺院破壊については、高槻には、寺の山林を保護したなどという文書も残るが、次の領地である明石では、多くの寺院破壊が行われたことが伝えられている。明石の僧侶たちが逃げ出したり、秀吉夫人のねねに直訴したという話がある。秀吉は僧侶の訴えを一蹴したという。

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