連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/05/21付)
賎ケ岳(下) 〜
右近にも「敵前逃亡」の汚名 勝敗決めた利家の退陣

合戦の死傷者をねぎらう石仏。賤ケ岳登山道沿いにまつられ、毎年、山開き祭で供養されている=滋賀県木ノ本町
 天正11(1583)年4月20日午前2時、漆黒の闇にまぎれて、佐久間盛政(もりまさ)の軍勢がひそかに動き出した。兵力は諸説あるが、7、8千と見られる。主力部隊の南下に合わせて、勝家本陣も北国街道を4キロ南下し、前田利家・利長親子3千は別所山から約2キロ南の茂山に移った。秀吉の最前線をけん制し、佐久間軍の奇襲を側面支援するためである。
 勝家軍が動いたのは、秀吉が岐阜の織田信孝攻めに出て不在だったこと、山路将監が勝家側に寝返り、秀吉軍の第二陣を構成する高山右近と中川清秀の陣が手薄であることを告げたからだった。勝家の甥、佐久間盛政はこれを奇貨とし、いわゆる「中切り」の策を立てた。勝家は、はじめは賛同しなかったが、ついに許可し、敵を撃破した後はすぐに引き返すよう命じたといわれる。
 20日早朝、中川清秀と高山右近の部隊は、余呉(よご)湖を西回りで迂回して来た盛政軍の猛攻にさらされた。 清秀、右近の兵はともに千ばかりで、頼るべき砦(とりで)はさしたる防御も施されていない。そこに大兵力を擁する佐久間軍が突如背後から殺到したのである。
 激戦は午前10時ごろまで続いた。勇を誇る中川清秀は戦死、孤軍となった右近はかろうじて死地を脱し、後方の羽柴秀長の陣にたどり着いた。右近軍の戦死者はおびただしく、フロイスは「ジュスト(右近)の義兄弟2人と妻の父および高槻の身分の高い武士が多数死んだ」と記している。いずれにせよ、さんざんな敗北であったことは間違いない。
 この賤ケ岳の前哨戦について、生き残った右近を非難する史料が少なくない。天嶮(てんけん)の賤ケ岳にこもる丹羽長秀の家臣桑山重晴は、いち早く佐久間軍を発見し、2人に賎ケ岳へ合流するよう使いを出したが、右近は「要害の儀は面々の持ちに仕るべく」と答え、これを聞かなかったという。また、右近は清秀の危機を救わず、一戦も交えずに逃走したと罵倒(ばとう)するものさえある。
が、桑山や右近の言葉に耳を貸さなかった」とあり、「中川家譜」にも「長房(右近)ガ従士モ来リ、入替リテ戦フ」との記載がある。圧倒的不利な中で奮戦し、生き延びた右近を責める理由はどこにも見当たらない。
 むしろ、大局で見れば、この敗戦は秀吉軍に僥倖(ぎょうこう)をもたらした。佐久間軍は、勝家本陣からの再三の撤収命令に従わず、清秀や右近の陣地にとどまったからである。北国街道をにらむ要衝の地を捨てるのが惜しく、もう一押しすればさらなる戦果が得られると過信したからであろう。
 だが、「勝家動く」の報に接した秀吉は手を打って喜んだ。盛政の奇襲は、勝家軍の堅い守りが崩れたことを意味するからである。秀吉は大垣から十三里の道を5時間で疾駆し、20日午後8時に本陣に到着した。これを知った佐久間軍が慌てて退却に転じたとき、秀吉は福島正則、加藤清正ら小姓らに突撃を命じる。これが世に言う「七本槍」の功名である。
 前田利家・利長親子が撤退を開始したのは、この直後であった。前田親子は、退却する佐久間軍の背後にいた。戦場にいる兵士が最も怖れる「裏崩れ」と呼ばれる事態である。このため盛政軍は浮き足立ち、やがて潰走した。勝家軍の敗北が決まった瞬間だった。
賤ヶ岳古戦場から、余呉湖を臨む。右近は右手奥の岩崎山、利家は左手奥の茂山に陣を置いていた=滋賀県余呉町
 だが、「中川家譜覚書」には、「勇を誇る清秀 この戦いで、前田利家は苦しい立場に置かれた。勝家は、利家が浪人時代、何かと目をかけてくれた恩義があり、利家は「おやじ殿」と呼んで敬愛していた。一方、秀吉は古い朋輩であり、利家四女の豪姫は秀吉の養女になっている。要するに両者ともに戦わねばならぬ理由は何もなかった。
 利家は悩んだに違いない。できればどちらにも組みしたくなかっただろうが、勝家の出陣要請を受け、人質を出した以上は、秀吉軍と戦う腹を固めていたはずである。
 利家が退却を始めた理由は、勝家軍の敗北を確信したからではなかったか。おそらく勝家の命に従わず、盛政が戦場に居すわった時点で、負けを覚悟したと思われる。
 勝家は、そんな利家の心境が手に取るように分かっていたに違いない。勝家が北ノ庄へ退却途中、越前府中城に帰参した利家を訪ね、これまでの交宜を謝したのは、利家の戦線離脱を、やむなきことと受け止めたからであろう。
 賤ケ岳の合戦は、右近にとっても、利家にとっても、ほろ苦いものだった。だが、死屍累々(ししるいるい)のなかで、立場こそ違え、ともに冷静に戦況を見つめ、出処進退を誤らなかったことは特筆されていい。右近と清秀、利家と盛政。くしくも隣国同士で石高もほぼ同じ彼らの一方が生き延び、一方が屍(しかばね)をさらしたことを思えば、利家と右近の思慮深さが一層際立って見えてくるのである。

●〔余呉湖〕
 羽衣伝説で知られる周囲6.4キロの陥没湖。琵琶湖の北岸から賤ケ岳(標高422メートル)を越えたところにある。険しい山に囲まれ、北国街道は、余呉湖の東側にある。秀吉軍は、余呉湖のほぼ真北にある神明山、堂木山一帯を第一陣とし、山路将監、木村隼人、小川祐忠らに守らせていた。
 高山右近は、第一陣から南へ約1キロ下がった岩崎山に陣を構えた。岩崎山の南700メートル付近には中川清秀、そのさらに南1キロの賤ケ岳には丹羽長秀の家臣桑山重晴が配置され、この三将をもって第二陣を構成していた。

[戻る]