連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/05/14付)
賎ケ岳(上) 〜
利家と右近、再び対峙 勝家出陣、秀吉が迎撃

琵琶湖畔に築かれた長浜城。秀吉の長浜城攻めが賤ケ岳合戦の口火を切った=北國新聞社ヘリ「あすなろ」から
 戦国時代、越前と近江を最短距離で結ぶルートは、現在の福井・滋賀県境の栃の木峠(標高537メートル)越えの北国街道であった。越前を治めた柴田勝家は、この山道を馬車が通れる軍用道路に整備し、現在も国道365号(加賀市―三重県八日市市)として使われている。
 栃の木峠一帯は、冬季、積雪が2メートルを超える豪雪地帯で、九十九折りの道をまっすぐ南へ下ると、琵琶湖の北にある余呉湖に出る。賤ケ岳は、この湖を包み込むように広がり、峰と谷が入り組む天嶮(てんけん)を成していた。
 天正11(1583)年3月、柴田勝家は大軍を催し、雪の栃の木峠を越えた。従う軍勢は、前田利家・利長親子、佐久間盛政、柴田勝政、金森長近、不破勝光ら約2万人。上杉景勝に備えて越中にとどまった佐々成政を除けば、勝家軍のほぼ全力であった。
 勝家がこの時期、常識外れの出陣に踏み切ったのは、同盟関係にある北伊勢の滝川一益や岐阜の織田信孝が秀吉軍の猛攻を受けていたからである。
 羽柴秀吉は明智光秀を滅ぼしたあと、清洲会議で信長の孫にあたる三法師を後継に推し、山崎の合戦でともに戦った諸大名を手厚く処遇した。勝家や信長三男の信孝、滝川らはこれに不満を持ち、反秀吉でスクラムを組む構図になっていた。
 山崎の合戦で勇猛果敢な突進を見せた高山右近は、恩賞として能勢郡(大阪府豊能郡)など4千石を加増された。腰が定まらない寄せ集めの将兵が多い秀吉軍のなかでは、小なりといえど、信頼に足る部隊であることは間違いない。
 秀吉が差配した信長の葬儀で、右近はキリシタンの教えに従って焼香をしなかった。この非礼は幸いなことに何のとがめも受けず、右近の信仰はより強固なものになったと思われる。
 何より右近を喜ばせたのは、信長の死によって、越前・北ノ庄に流されていた右近の父、飛騨守(ひだのかみ)が高槻に帰ってきたことだった。右近は戦乱で焼けた安土のセミナリヨを高槻に再建し、飛騨守も献身的に学生の世話をした。
 イエズス会の1583年の年報によると、高槻のセミナリヨには32人の日本人学生がいたという。
 「(彼らは)ラテン語を学んでいる。彼らは大部分わが文字をよく書き、ヨーロッパの学校において少年が3年の間に学ぶところを彼らは容易に3、4カ月で修得する」
 高槻領内では、もはや寺社は維持できず、破棄されて教会が建てられた。領民はもとより、仏僧の改教も相次ぎ、一種の宗教国家の様相を呈した。
 もっとも、山崎の合戦後の平穏な日々は1年ももたなかった。北陸が雪に閉じ込められた天正10(1582)年12月、秀吉は長浜城を攻めて勝家の養子勝豊を降伏させ、岐阜の織田信孝を無抵抗のうちに下した。そして息つく間もなく伊勢に進軍し、滝川軍がこもる亀山城を囲んだ。
 伊勢攻めには右近も参陣した。このとき右近は秀吉軍が攻めあぐんでいた強固な櫓(やぐら)の下にトンネルを掘らせ、火薬を仕掛けて爆破した。こうした最新の土木工事技術を、右近はセミナリヨの授業を受け持つ宣教師から教わったのかもしれない。
 一益の苦境を見かねた勝家は大雪をかきわけて北近江に出た。雪解けを待っていれば、同盟軍が雲散霧消してしまいそうだったからである。「勝家動く」の報に接した秀吉は滝川攻めの一軍を残し、北近江へ走った。右近も秀吉に従い、賤ケ岳に陣を構えた。
 右近と利家は5年前、荒木村重謀叛(むほん)のあおりを受け、高槻城を織田軍に包囲されて以来、再び敵味方として相対した。不思議な因縁といわねばなるまい。

●〔清洲合戦〕
 天正10(1582)年6月27日、清洲で羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が顔を合わせ、信長の跡目を決めた。秀吉は信長の孫(長男信忠の嫡男)の三法師を担ぎ出し、柴田勝家は信長の三男・織田(神戸)信孝を推挙したが、丹羽長秀、池田恒興が秀吉についたために三法師に決まった。遺領配分でも光秀討伐の勲章を引っ提げた秀吉の主張がことごとく通り、秀吉はほぼ完璧な政治的勝利をおさめた。政治に敗れた勝家は、もはや武力に訴えるしかなく、やがて賤ケ岳の合戦につながっていく。

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