連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/04/23付)
山崎の合戦(下) 〜
先鋒右近、鬼神の槍働き 勝家与力、利家に暗雲

 山崎の合戦で光秀が拠点にした勝龍寺城。現在は公園として城門などが再現され、夜間はライトアップされている=京都府長岡京市勝竜寺
 天正10(1582)年6月12日、京の西、西山山脈の南端に位置する標高270メートルの天王山は、そぼ降る雨にかすんでいた。天王山の東にある男山までわずか1キロ余り。鶴の首のような狭い平野部を淀川が流れ、西国街道が南北に走る。この狭隘(きょうあい)な地をはさんで、完全武装の軍兵がにらみ合っていた。
 このあたりの村を山崎という。京と大坂を最短距離で結ぶ交通の要衝である。ここを抜ければ、一気に京までの道が開けた。攻める秀吉軍は約2万6000、迎え撃つ光秀軍は約1万5、6000である。兵力に劣る光秀軍は、山崎の隘路(あいろ)を押し合いへし合いしながら、北上してくる秀吉軍の出会い頭をたたこうとしていた。秀吉軍は、出口をふさぐ光秀軍をひた押しに押すだけでよかった。いずれにせよ、序盤の戦いが勝敗を左右するのはまず間違いなかった。
 光秀軍の中央前衛は、猛将の誉れ高い斎藤利三(としみつ)隊3000。これに相対する秀吉軍の先鋒(せんぽう)は、高山右近隊2000であった。
 右近はこの2日前、8歳の長男を連れ、西宮で秀吉に会った。ちょうど隣国の摂津茨木城主・中川清秀も娘を連れて来ていた。右近が長男、清秀が娘をそれぞれ連れて来たのは、むろん人質のためである。備中高松から長駆して来た秀吉は疲れた素振りも見せず、2人を丁重にもてなしたうえに、「無道者の光秀に味方するわけがない」と言って、人質を受け取らなかった。人たらしと言われた秀吉らしいソツのなさである。
 一行は西宮から尼崎へ移動後、大坂から来援した信長の4男信孝、宿老の丹羽長秀、尼崎城主の池田恒興(つねおき)を加えて評定を行なった。席上、清秀と恒興が声高に先鋒を主張して譲らぬなか、右近はひざを進め、声を励まして言った。「織田家の軍法では、最も戦場に近い領地を持つ者が先鋒を務める。私が先陣を承らねば、武門の恥これにすぐるはない。筑前(秀吉)殿、道理をお考え下されよ」。
 秀吉は、右近の要求を即座に受け入れ、右近を先鋒に定め、清秀を2番隊に、恒興を3番隊に置いた。信長の遺訓を持ち出した右近の言上も見事なら、即断した秀吉も見事な呼吸である。
 右近は評定を終えると高槻城に駆け戻り、その日のうちに山崎村へ出陣した。村々の要所にすき間なく兵を配置し、街道筋から山崎村に入る木戸を固く閉じさせた。後から来る味方の抜け駆けを許さぬためだが、侵入を阻まれた3番隊池田恒興が右近の裏切りを疑ったほど、徹底して最前線に張り付き、先鋒の役目をまっとうしようとした。右近の戦意の高さ、鼻っ柱の強さがうかがえる。
 山崎村の北東約3キロ付近にある勝龍寺城に本陣を置いていた光秀は、秀吉軍に備えて本営を1キロ先の御坊塚に進め、戦線を縮小させた。兵力不足のためである。頼みとした丹波の細川藤孝・忠興親子、大和の筒井順慶はついに動かず、麾下(きか)の最強部隊である明智秀満(ひでみつ)隊5000は遠く離れた安土城にいた。柴田勝家軍の反撃を想定した光秀の戦略は、予想もしなかった秀吉軍の西上によって根底から崩れたのである。
光秀の菩提寺、西教寺に伝わる明智一族の墓。=滋賀県大津市坂本
 翌13日午前4時、戦端が開かれた。高山隊が黒い塊になって先頭を走り、中川隊、池田隊が負けじと続く。光秀軍は隘路から押し出されてくる高山隊を包むように部隊を展開させ、巧みに兵を動かして殲滅(せんめつ)しようとした。
 序盤は光秀軍が優位だった。地の利を得た斎藤隊が高山隊の頭を押え込み、これに中川隊が割って入ると、畿内最強の近江兵を抱える阿閉(あべ)貞秀隊が斎藤隊を助け、中川隊を押し返した。
 だが、秀吉軍には羽柴秀長、黒田孝高、神子田(みこだ)正治ら新手が続々と加わってくる。3番隊の池田隊は混雑する中央を避けて淀川沿いを進み、加藤光泰(みつやす)隊がこれに続く。わずか200の加藤隊が明智軍の左翼に進出したとき、光秀軍の戦線が崩壊した。高山隊、中川隊の猛攻をかろうじて食い止めていた斎藤隊、阿閉隊が包囲されることを怖れ、浮き足立ったからである。
 開戦から2時間後、敗走に移った光秀軍は次々に首を討たれ、あっという間に四散した。光秀が勝龍寺城に戻ったとき、兵力はわずか1000に過ぎず、夜には100にまで減った。城を包囲した秀吉軍は城の北側に兵を置かず、自壊を待つ作戦に出たからである。光秀はこの日深夜、城を抜けて近江坂本城を目指したが、伏見へ向かう山中で、落ち武者狩りに遭い、首を討たれた。本能寺の変から12日後のことである。最後まで光秀に従ったのは、わずか数騎であったという。
 フロイスの書簡は高山隊の戦闘ぶりを次のように報告している。
 「キリシタンらは勇敢に戦い、死んだ者は唯1人にすぎなかったが、最初の突撃で明智方の武士の首200を取った。それで明智の軍は勇気を失った」
 山崎の合戦は、秀吉が雲上への道を切り開く一里塚であった。この戦いで右近は武名を上げ、秀吉の信頼を勝ち得た。だが、柴田勝家の麾下にいる前田利家はこれから試練の時を迎えようとしていた。

●〔天王山〕
 後年、山崎の合戦は「天王山の戦い」と呼ばれた。太平洋戦争では、栗田艦隊のレイテ湾突入が「天王山」と言われたこともあった。しかし、山崎の合戦での天王山争奪戦はしょせん局地戦に過ぎず、大勢にはほとんど影響しなかった。

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