連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/04/16付)
山崎の合戦(上) 〜
能登動乱、利家動けず 勝敗左右した右近

上智大学キリシタン文庫蔵
 本能寺の変は、織田軍団に激震をもたらした。桶のタガが外れ、バラバラになった姿に近い。
 越中魚津城を攻め落とし、意気上がる柴田勝家麾下(きか)の北国軍は、信長の横死の知らせが届くと、雪崩を打って撤退を始めた。『北陸七国志』にはこうある。
 「柴田以下の諸将、大いに仰天し、陣中、上を下へと騒動し、われ先にと魚津を引取りにけり」
 前田利家の逃げっぷりもすごかった。その日のうちに魚津から放生津(新湊)へ退き、ここから船で氷見へ渡り、夜を徹して居城の小丸山城(七尾)へ走った。約80キロの距離を1日で駆け戻ったことになる。
 北陸は織田軍の支配になって日が浅く、一向一揆の残党が各地に身を潜めていた。利家の領国能登では、上杉景勝と結ぶ旧畠山氏の重臣たちが策動を繰り返していた。
 事実、信長の死から22日後、温井、三宅らが軍勢を催し、石動山の僧兵と組んで利家・佐久間盛政連合軍と激突する。利家は、この戦いに勝利し、動乱を力で押さえ込んだ。灰燼(かいじん)に帰した石動山山門には千を超える敵の首が並んだという。
 『村井長頼覚書』には、この間、利家は何度も北の庄へ使者を送り、明智討伐を進言したが、勝家はうんと言わなかった、とある。これとは逆に、勝家はすぐさま兵を挙げて上洛しようとしたが、利家が反対したのであきらめたと記す文書もあるが、当時の状況からみて、どちらもありえない話である。
 そのころ、長男利長は蒲生賢秀(かたひで)・氏郷(うじさと)父子の居城・近江日野城で切歯扼腕していた。利長は新妻を郷里の尾張・荒子へ逃がした後、いったん安土城にこもった。しかし、ここは守り切れぬと判断し、留守を預かる蒲生父子とともに、日野城へ退いた。安土城はこの後、明智秀満の軍勢約五千が無血入城する。
 氏郷の室は信長の娘で、利長とは相婿になる。利長は氏郷を兄のように慕っていた。氏郷は、明智討ちにはやる利長の血気に手を焼き、明智方から来る使者をいなしつつ、信長の二男・信雄に出馬を求める使いを送った。手持ちの軍勢が少なく、単独で光秀に太刀打ちできなかったからである。
 信雄はこのとき、唯一、畿内にまとまった兵を擁していた。信長連枝の筆頭であり、明智討伐の旗頭になりうる存在であった。もし、信雄に将器があり、果敢に出陣していれば、利長や氏郷も従軍していたに違いない。
 だが、信雄は性惰弱で、決断力に乏しく、いっかな動こうとしない。結局、信雄がしたことは、山崎の合戦後、安土城に火を放つという暴挙であったとも言われている。利家、利長ともに動きたくても動きようがなかったのである。
 タガが外れた信長軍のなかで、目の覚めるような動きを見せたのは、備中高松にいた秀吉だった。世に言う「中国大返し」である。いくつかの幸運が重なったにせよ、この難事業をやりとげた秀吉という男は、やはりただものではない。
 秀吉は、それこそ土煙を上げながら中国道を駆け戻り、かつ四方に書状を送った。その最大眼目は高山右近をはじめ、中川清秀(きよひで)、池田恒興(つねおき)ら摂津衆を味方につけることにあった。摂津は西上する秀吉と、迎撃する光秀の接点に位置する。摂津衆は織田軍団のなかでも新参組で、光秀の指揮下に組み込まれていたから、彼らが光秀に付いても何の不思議はなかった。
 「京都からの知らせによれば、信長公も信忠公も無事に切り抜けたよし…」。秀吉がこのとき、中川清秀に送った書状の一部である。信長生存という大ウソがどこまで効果があったかは分からない。秀吉はむろん、右近にも書状を送っていたはずである。
 だが、光秀は、右近の留守中、わずかな守兵がこもる高槻城に使者を送っただけで、城を占拠することもなく、在城していた右近の妻を人質にすることもなかった。信長に仕えてわずか10年で秀吉、利家より先に大名に取り立てられたほどの男がなぜかほうけたように、何もしていない。
 やがて西宮に到着した秀吉の元へ、右近と清秀がそろって従軍を申し出る。山崎の合戦の勝敗はこの時点で既に決していた。

●「聖日」
 本能寺の変が起きる19日前の5月12日、外国人宣教師たちを驚愕させる出来事があった。信長が自分の誕生日を「聖日」として布告し、緒将に総見寺を参詣するよう命じたからだった。
 「信長は創造主にして、世のあがない主であるデウスのみに捧げられるべき祭祀と礼拝を横領した。あまりに途方もなく、狂気じみた暴挙に及んだ…」(フロイス・『日本史』)
 信長の神格化の動きは、信仰の根幹にかかわる問題である。外国人宣教師たちの間には本能寺の変を、「天罰」と受け止める空気があったようである。

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