連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/04/02付)
牛一と甫庵 〜
松任にいた「信長公記」の作者
右近の足跡を知る軍記

太田牛一の直筆といわれる「信長公記」の一部。京都市北区の建勲神社に伝わる(国の重文)
 高山右近の足跡をわれわれが知ることが出来るのは「信長公記(しんちょうこうき)」と「信長記(しんちょうき)」と呼ばれる2つの軍記によるところが大きい。右近の活躍や、キリシタンの動静も描かれているからである。
 「信長公記」は太田牛一(おおた・ぎゅういち)、「信長記」は小瀬甫庵(おぜ・ほあん)という、ほぼ同時代人の2人が書き上げたものである。ややこしい話だが、牛一が慶長15(1610)年に書いた「信長公記」を元にして、翌年、甫庵が独自の「信長記」を書き上げた。
 右近の活動を知るには、16世紀の宣教師がヨーロッパに書き送った書簡も数々ある。だが、有名なフロイスの「日本史」でさえ、日本語に完訳されたのは1975年、今からわずか27年前のことである。日本人に伝わる2つの織田信長一代記と、フロイスらイエズス会報告が20世紀末になってようやく出会い、戦国時代の実相が立体的になったのである。右近研究は、まだ発展途上にあるといっても過言ではない。
 「信長公記」の牛一は、太田和泉守(いずみのかみ)牛一といい1527年、尾張の国に生まれた。はじめは信長の足軽だったが弓術に優れ、一時は丹羽長秀(にわ・ながひで)の与力になったという説もある。学問好きで信長の秘書役を務めるようになった。
 天正10(1582)年の本能寺の変の後、なぜか加賀の松任で隠せいする。松任が丹羽の領地だったことが縁と思われるが、松任で過ごした牛一の詳しい記録はない。ただ、後に前田利常の代になって牛一の孫の宗古が御書物奉行として前田家に仕えて小松に在住している(加能郷土辞彙)ことなど、前田家と牛一の間に何らかの接触があったことが想像される。
 松任に数年滞在した後、豊臣秀吉に仕えて、山城の国で検地奉行についている。さらに秀吉亡き後は秀頼にも仕え、豊臣家滅亡後、軍記の執筆に専念。「信長公記」や、秀吉の一代記「大かうさまくんきのうち」をまとめた。高山右近らキリシタンが信長にいかに優遇されていたのか、右近が鳥取城攻めで活躍したことなど、詳細なメモを基にした史料的価値は極めて高いとされている。没年は不明だが、「信長公記」を書き上げたときに84歳だったという。
 一方、「信長記」の小瀬甫庵も尾張に近い美濃の生まれである。牛一の37歳年下になるが、信長の部下や豊臣秀次に医師として仕えた。松江城主の堀尾吉晴の下で松江城普請にもかかわったという。儒学者でもあり多才な人だったらしいが、主君に恵まれず浪人暮らしが長かった。1624(寛永元)年、前田利常に招かれ加賀にきた。ここを安住の地として有名な「太閤記」を書き上げ、加賀に骨を埋める(1640年没)のである。
「信長記」や「太閤記」などで知られる小瀬甫庵とその末裔の墓が並ぶ金沢市東山の墓地
 甫庵は、信長記を書くにあたって「牛一の信長記はあるが、その不備を補完するもの」と断っている。また牛一については、「素朴ではあるが、かたくなで最初に聞いたことを本当と思い込む」とライバルをけなし、自らの著書をPRしている。別項目で「南蛮寺荒廃記」をつけて、伴天連排除の姿勢を示し、日本古来のしきたりや考えと対立するキリシタンへの嫌悪感をも、のぞかせている。だが甫庵の「信長記」は「偽り多し、3つのうち本当のことは1つ」(大久保彦左衛門の三河物語)と当時の人からも非難されているように、正確さでは牛一の「信長公記」に軍配が上がる。「歴史書の牛一、文学性の甫庵という見方もできる」と軍記に詳しい金沢学院大の青山克弥教授は分析する。
 甫庵が金沢に来た1624年は、高山右近が金沢から追放されて約10年後である。甫庵は同じ美濃出身で前田家の家老、横山長知(ながちか)(1568−1646)の屋敷をしきりと訪ね、昔話を聞いた。信長や秀吉のエピソードを聞きだし「太閤記」にまとめたといわれる。長知は、茶飲み話のつもりで話したことが「太閤記」となって出版されたことを知り「それならもっと話し方もあったのに」と、甫庵の狙いを知らずにした昔語りを悔やんだという。
 横山長知は右近と2人で「利長謀反」の疑いを晴らしに徳川家康の元に行った仲でもある。加賀藩の語り部的な存在だったのだろう。長知の長男康玄(やすはる)は高山右近の娘ルチアの夫である。長知は右近らキリシタンの理解者であり、高山家と横山家は極めて近い関係にあった。長知は右近のことをどのように甫庵に語って聞かせたのだろうか。他の出来事はたっぷり脚色して書き残こしているのに、加賀のキリシタンについて甫庵は何も書いていない。

●〔信長の一代記〕
 「信長公記」も最初は「信長記」と呼ばれていたという。後に出た甫庵の「信長記」と混同を避けるために、牛一の作を「信長公記」と呼ぶようになった。「断じて主観による作品や評論ではない。あったことを除かず、無かったことは付け加えていない」(榊山潤訳)と牛一は書き残しているといい、歴史書として定評がある。

[戻る]