連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/03/19付)
―天守指図―
加賀に集められた「安土」の遺産 「信長後継」目指した利家

 前田利家は「織田信長の後継」を強く意識した戦国武将だった、そう思わせるいくつかの事例がある。
 1つは、安土城を造った大工集団が信長亡き後、利家とともに加賀にやってきて、金沢の街と城を築いていること。さらにその大工の末裔(まつえい)が、安土城天主閣の絵図面を残している事実。
 2つには、信長の一代記を書き残した日本文学史上に名を残す2人の軍記作家、太田牛一(ぎういち)(1527―1610?)と小瀬甫庵(おぜほあん)(1564―1640)がともに、加賀の国に足跡を残していること。たとえば信長に仕えて「信長公記(しんちょうこうき)」を書いた牛一は本能寺の変の後、松任(当時は丹羽長秀の領地)に数年間隠世(いんせい)。孫が利常に仕えている。また「太閤記(たいこうき)」と「信長記」の作者で知られる甫庵になると、晩年を金沢で過ごし卯辰山ろくに墓があるほどだ。
 3つ目は、人的つながりだ。前田利長の妻となったのは信長の娘・玉泉院(ぎょくせんいん)である。その母、つまり信長の側室も、晩年には加賀に招かれているという。高岡の瑞龍寺(ずいりゅうじ)に信長廟(びょう)があり、金沢城に玉泉院丸と名付けられた曲輪(くるわ)があるほど、前田家は主君織田家を大切にしている。
 むろん、信長の人的遺産といえば、前田利家本人が間違いなくその1人だった。さらにいえば、高山右近や、右近に誘われて金沢に来た内藤如安(じょあん)、宇喜多久閑(きゅうかん)ら加賀藩で禄をはんだキリシタン武将らの存在こそが、伴天連(ばてれん)を保護した信長の「遺産」の1つと言ってもいいだろう。
 「信長」と「安土」の遺産を前田利家が受け継いだ分かりやすい一例として、安土築城に加わった大工集団がある。
上空から見た安土城本丸周辺。中央の天主台跡には礎石まで見える=北國新聞社ヘリ「あすなろ」から
 利家は本能寺の変の翌年、天正11(1583)年、金沢城入りする。このとき利家は「大工100人余を引き連れていた」(加賀藩史料)。利家についてきた大工とは織田信長の下で安土築城に加わった尾張系の「池上家」や、同じ尾張系の「清水家」などの棟梁(とうりょう)クラスで構成されていた。信長というパトロンを失った大工や石工集団の多くが利家に“再雇用”されたのである。建築史家で京都造形芸術大の中村利則教授(金沢市出身)は「100人の大工を抱えるのは、一大名として飛びぬけて多い」といい、利家が、金沢城築城にさいして安土城を意識し「信長の後継たらんとしたことが感じられる」という。
 利家の集めた匠(たくみ)たちはその後、加賀藩お抱え大工の系譜として明治時代まで続いていく。ところが江戸中期に、池上家の八代目、池上右平という棟梁(作事奉行)が1枚の城郭絵図を残していたことから、20世紀になって、建築学界に「安土城天主閣論争」を引き起こし、加賀藩の大工は一躍、脚光を浴びることになる。
 昭和44年、建築史家の内藤昌氏(現・愛知産業大学長)が、加賀藩の史料から先の池上右平の「天守指図(さしず)」を発見した。安土城と明記はされていなかったが、内容から安土城の天主閣絵図と判断。内部に吹き抜けのある巨大な安土城天主閣の復元図を完成させたのである。内藤氏の師であり日本の城郭研究の創始者ともいわれる藤岡道夫東京工大教授(金沢出身の文学者・藤岡作太郎の長男)も、この内藤説を支持し、一大センセーションを巻き起こす。
 しかし内藤説には反論も強かった。建築史家・宮上茂隆氏が、天主の内部吹き抜け説を否定。天主の平面積・規模でも内藤説と対立した。
 注目すべきは、宮上氏が反論のよりどころとしたのが、加賀藩に伝わる「安土日記」=太田牛一著・尊経閣(そんけいかく)文庫蔵=と呼ばれる史料だったことである。信長配下の武将が見た安土城のことが記されている。内藤説も宮上説もともに加賀藩に残された記録を元にして論争が行われたのである。
 「安土日記」や「天守指図」など加賀藩に集められた安土城関連史料のほかに、安土城の築城過程を今日に伝えるものには、フロイスの「日本史」、牛一の「信長公記」などがある。また、日本の天守閣成立の過程は、小瀬甫庵の「永禄以来出来初之事(えいろくいらいできはじめのこと)」にも触れているという(「南蛮幻想」井上章一著)。
 牛一と甫庵。信長と安土のことをもっとも詳しく記した軍記作家2人が、なぜ加賀の地に足跡を残し、同時代の高山右近らキリシタンのことをどのように書き残しているのか、次回に触れてみたい。

●〔安土城とキリシタン〕
 一般的に「天守閣」と表記されるが、安土城については「天主閣」と表す。その天主台が変形八角形になっているのは昭和15年の発掘で分かった。それまで安土城は天正の崩壊以後、三百数十年、廃墟として樹木に覆われていたので、詳細は不明だった。加賀藩の池上右平はなぜ、その安土城の特徴を知っていたのかが論争のポイントであり今もナゾでもある。安土城天主閣復元は、その規模や形態だけではなく、天主閣に当時のキリシタンによる南蛮文化が影響しているのかいないのかについても大きな問題を投げかけている。

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