連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/03/12付)
―セミナリヨ―
布教の拠点づくりに奔走 信長が深い理解と支援

安土セミナリヨ跡。現在は公園化されている。本能寺の変以後に破壊され、わずか2年の存在だった
 織田信長はイエズス会宣教師に大いなる関心と好意を示した。安土城下で教会や神学校(セミナリヨ)の建設を許し、土地を与えた。工事は手早く進められ、高山右近の姿が頻繁に登場することになる。
 城下の賑わいは日ごとに増し、直線状の道が一筋二筋と加えられていく。水の都らしく水路、掘割も伸びて、中には、大臼川(だいうすがわ)と呼ばれる運河まで掘られたという。大臼とは「デウス」(神)のことにほかならない。
 セミナリヨはこの大臼の地に建てられた。あるいはセミナリヨが建ったから大臼とよばれたといった方が正確かもしれない。デウスの教えを日本の中心都市から広めたい右近の願いは順風満帆で進んでいた。
 「なかでもこの事業で示されたジュスト右近の働きぶりは特に際立っており―」とフロイスの「日本史」にはセミナリヨの建設に奔走する姿が描かれている。右近は、自分の領地である高槻から職人を呼び寄せた。資金はむろん自前である。教会側が負担するというのを断ったという。
 セミナリヨは3階建てだった。三方を石垣で囲み、建物を高くするため、埋め立ての土砂を増やし、大量の木材を必要としたという。巡察師バリニャーノの「日本巡察記」やフロイスの「日本史」、日本側資料でも「信長公記」などかなり一般的な文献にも安土セミナリヨのことは書き残されている。
 それらによると、屋根は、安土城天主閣と同じ色の瓦(青色ともいわれる)で葺(ふ)くことが許され、高くそびえ建っていた。部屋数20。3階には大広間があり、生徒30人が学んでいた。右近は高槻の自領から数人の生徒を送りこんだ。いずれも武士の子に限られ、日本語の読み書きやキリスト教の教義のほか、ローマ字、ラテン語、楽器などを学んだ。宇宙や地理など西洋科学の教えは、まるで砂にしみこむ水のように吸収された。教師役の外国人宣教師も、日本人青年の理解力と優秀さには「驚嘆するばかりである」(巡察師バリニァーノ)と故国に伝えたという。
 イエズス会の宣教師は日本人が「元来新奇なものを見たがる強い好奇心をもっている」(フロイス)と感じていた。布教の際には直接間接、さまざまにその日本人の好奇心の強さを利用した。セミナリヨ建設もその一つだった。目論見どおり、建設中には信長がじきじき見学に訪れ、名だたる武将たちも次々建築現場に足を運んだ。
安土城近くの「文芸の郷」には、当時のオルガンを記念してパイプオルガンを設置している
 神学校が完成し、校舎からオルガンの音色が流れだすと、信長はひかれるように再び訪れた。当時のオルガンは現代のものより甘い音色がしたという。1582年に一人の神父が伝えた書簡には「いままで日本に到着した物の中で日本人が最も喜んだのはオルガンやビオラをひくことだ」とあったともいう(「ミサの物語」和田町子著)。好奇心の強い日本人をとりこにする作戦は、まず足元から成功したといってもいい。信長は「伴天連(ばてれん)の大旦那(おおだんな)」と呼ばれるようになっていく。
 しかし、安土から目を転じれば、各地で血みどろの戦いが続く戦国の世であった。
 越前にいた前田利家は、柴田勝家の配下で凄惨(せいさん)な一揆(いっき)せん滅作戦の最中であり、大坂でも信長軍は4年にわたる本願寺との戦いを続けていた。右近も、羽柴秀吉の下で因幡鳥取城攻めに加わっている。神学校建設だけに没頭できる状況ではなかったことはいうまでもない。
 異国情緒あふれ、甘いメロディーが流れるセミナリヨが出現したのは、まぎれもなく、日常に死があり、互いに殺しあい、時には何百人もの死体が野にさらされた無惨な時代だった。
 一向一揆に手を焼いた信長と、キリスト教布教を望む右近らの思惑が一致した―。天正8(1580)年はそんな年だった。信長のキリシタンへの肩入れとは逆に、仏教勢力への弾圧と大量殺りくは翌、天正9年にかけて頂点に達していくのである。

●〔神学校〕
 安土セミナリヨは、安土城大手道の前方、現在の街並みのはずれにある。昭和初期まで残っていた水路を拡大して船付場を整備し公園化した。現在の町名は滋賀県安土町下豊浦敷来。イエズス会は大分にもセミナリヨより教育内容が高いコレジオを建設している。

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