連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/03/05付)
―安土へ―
天主見上げる高山屋敷跡 人々の記憶と地名に残る

 1578(天正6)年、高槻城の攻防で、前田利家と初めて相見(あいまみ)えた高山右近は、織田軍団に下って信長側近となった。北陸に在って各地を転戦していた利家に比べ、畿内・高槻に城を構える右近は、信長の南蛮好みも加わり、主従の距離を見る見る近くしていった。
 安土城はそのころ天主も完成し、街の整備が着々と進んでいた。右近は、安土城下に屋敷を構えることになった。信長の指示もあったろうが、右近の側にも、新しい日本の中心で「デウスの教えを知らしめる」(フロイス「日本史」)強い願いがあった。
 現在の滋賀県安土町下豊浦に「高山」と呼ばれる土地がある。高山右近の屋敷跡だと言われている。ただ、一部研究者が地名から推定するだけで、正式な町名として残っているわけでもなく、右近屋敷跡と断定するものはない。
 下豊浦には春耕を待つ水田が広がっていた。何の変哲もない田園地帯だ。かつて武家屋敷があったという話を唯一頼りに、キリシタン大名の足跡を探し歩いても、戸惑うばかりの所だった。ようやく城跡近くで1人の老人と出合った。
 「ああ、高山なら、わしらの共同農地やった。そこや」。老人は、山すその農道に建つ傾きかけた作業小屋の方角を指して「高山だ」と言った。安土町でも、ごく限られた地域の人々しか知らない狭く小さな場所だった。
 そんな所より、安土ではもっと有名な所を見てほしいと思ったのか、老人は、目の前にそびえる巨大な城跡を指差した。「あそこは“くずれ”というんや」。天主閣があった山頂である。「天主はな、あっちの方、大手から見ると裏側になる方向へ燃えて崩れ落ちたんや。そやから“崩れ”というんや」。あたかも420年前の天主炎上を見ていたように、話は続いた。
安土城を上空から見る。中央、山すそ左が高山。中央下に大手道の入り口。山頂に天主の跡が見える。築城当時の湖面は「高山」の近くまであった=北國新聞社ヘリ「あすなろ」から
 安土城は、もともと琵琶湖に突き出た半島のような山に築いた城である。南に面する大手道の前方が近江平野で、その背後にあたる部分は、湖に浮かぶ「岬」だった。だが、昭和になって大規模な埋め立てが進み、今は築城当時とまるで様子が違う。現在の安土城址を一周しても、信長の築城の意図は理解しにくいだろう。
 先の下豊浦も、現在こそ水田地帯の真ん中にあるが「浦」のつく地名が物語るように、かつては湖畔で、城下町の端だった。
 記録によると、安土城では尾張以来の重臣の屋敷は城内の山中に、それも大手道方向に建てられた。発掘調査などから疑問や反論も多いが「伝・前田利家邸」といわれる屋敷跡が大手道にあるのもこの説では一理あることになる。一方、高山右近らのいわば信長にとって外様(とざま)となる武将の屋敷は、城東側の湖畔を埋め立て、新しく造成した場所に建てられたという。
 フロイスの「日本史」にも、「身分ある人たちの邸は山に建てられ」「武将たちが彼(信長)に迎合するために、安土の新しい市(まち)に豪華な邸宅を造りたがっている―」「日本中のおもだった武将たちが居住しており、信長を訪問し、彼と種々の用件を談合するために各地から参集する―」(第47章)などとある。安土築城は一種の首都移転であり、建築ラッシュが続いたのである。
 また「信長公記」の天正8(1580)年の項には、以下のように記されている。「入り江を埋めて、町を造らせ」「お屋敷を頂いた人びとは稲葉刑部(いなばぎょうぶ)、高山右近、日禰野(ひねの)六郎左衛門…」。
 信長軍団に新しく加わった武将たちの屋敷が、造成地に集められて誕生したとの記録にある通り、この武将たちの名は現在も一塊となって下豊浦に地名として残っていた。右近の屋敷が、そこにあったのはほぼ間違いない。
 それもこれも、今やすべて夢の跡。近世日本の幕開けを告げた城下の街並みも武家屋敷跡も水田の下である。巨大な大手道と、石垣群を除けば、楽市楽座で繁栄した安土の面影はない。形あるものが消える一方で、人々の記憶の中には天主炎上の場面が420年余も語り継がれ、一武将の屋敷名が地名として残っている。不思議なものである。
 幻のような城跡を後にした。振り返ると、南と東に分かれた屋敷跡に、織田軍団「直臣・利家」と「外様・右近」の姿が浮かびあがった。この年、利家43歳、右近28歳。大河ドラマふうに言えば、「織田コンツェルン」の信長会長のもと、部長か課長あたりの出世階段を上っている2人だった。


●〔信長と安土城〕
 信長は領地の拡大にあわせ、清洲、小牧、岐阜と築城し、1576(天正4)年に安土城の普請を始めた。翌年5月に天主着工。1579年から信長は天主に居住するようになった。標高199メートル余の山頂に建てられた天主閣は変形八角形。後の城は「天守」と表すが安土城のみは「天主」と表現される。空前の規模をほこり、近世城郭の特徴である巨大天主閣の幕開けを告げるものといわれる。位置的には東海、北陸、西国をにらむ位置にあるとされる。

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