連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/01/08付)
―高槻城攻防―
最初の出会いは敵味方 攻める利家、守る右近

高槻市の城跡公園に建つ高山右近像
 天正6(1578)年11月10日、高山右近の居城である摂津(せっつ)(大阪)高槻(たかつき)城は雲霞(うんか)のごとき大軍に囲まれていた。眼下に広がる淀(よど)川べりには織田軍最強の戦闘部隊である前田利家の旗指物(はたさしもの)がはためき、攻撃の合図を今や遅しと待っていた。
 高槻二万石を領する右近は当時、26歳。ジュスト(正義の人)の洗礼名を持ち、父親の飛騨守(ひだのかみ)(洗礼名ダリヨ)とともに幾度も虎口(ここう)を脱し、5年前、ついに主筋にあたる和田惟長(これなが)を放逐して城主の座に就いた。敬虔(けいけん)なキリシタンといえども、乱世をのしあがってきた経歴は、あまたの戦国大名と少しも変わらない。
 対する利家は41歳の男盛り。14歳で初陣を飾り、槍(やり)一本で武功を重ねてきた。3年前、越前府中(武生市)に三万三千石を得て初めて念願の大名となり、北陸軍の軍団長・柴田勝家の幕下(ばっか)にあった。
 利家が北陸から長駆出陣してきたのは、摂津の領主荒木村重(むらしげ)が突如、本願寺・毛利氏と通じて信長に反旗を翻したからである。荒木氏傘下の有力大名であった右近と利家はこのとき、敵としてまみえた。おそらくこれが、後に不思議な縁(えにし)を結ぶ2人の出会いであったと思われる。
 信長が荒木氏攻略にもよおした軍勢は、大掛かりなものだった。利家の周囲には明智光秀、丹羽長秀、滝川一益(かずます)ら織田家の宿老に加えて、織田信忠、佐々成政の軍勢がひしめいていた。その背後には陣頭指揮を執るべく出馬した信長の本営があった。
 信長が自ら出陣せねばならぬほど、荒木氏の謀叛(むほん)はゆゆしき事態を招いていた。大坂の石山本願寺は、中国の覇者毛利氏と同盟を結んでいる。荒木氏の謀叛によって、この両者をつなぐ中継地ができるばかりではない。播州攻略に手をかけたばかりの羽柴秀吉軍は、正面から毛利方の別所軍、背後から荒木軍の挟撃を受けることになり、戦線崩壊の危機に立たされていた。
 荒木氏謀叛の急報を受けた信長は当初、容易に信じようとしなかった。「何かの間違いではないか」とさえ言った。信長は荒木村重の器量を認め、織田家の宿老と同等の処遇を与えていたからである。謀叛の理由は村重配下の者が本願寺に兵糧を売っていたことが露見したためと言われるが、果たして事実であったかどうか。むしろ、信長に疑いを持たれたこと自体に村重は恐怖したフシがうかがえる。
 26歳の若さで高槻城を預かる右近にとっても、村重の謀叛は寝耳に水だった。右近が村重のいる有岡城(兵庫県伊丹市)に駆けつけたときは、既に裏切りが決した後であり、懸命の説得もむなしかった。
 キリシタンの洗礼を受けている右近にすれば、本願寺と手を結ぶことは信仰上の裏切りに等しい。当時、外国人宣教師たちの最大の保護者は信長その人であり、信長軍を敵に回す愚を右近はだれよりも強く感じ取っていたのである。
 だが、村重の下には、3歳になったばかりの右近の長男と妹が人質に取られていた。右近が荒木氏を裏切れば、武門の誇りは地に落ち、人質は真っ先に殺される。右近の最大の理解者であった飛騨守ですら「孫を見殺しにできぬ」と声高に主張し、信長の軍門に下るなら切腹すると公言していた。
 麾下(きか)の軍勢を根こそぎ投入した信長は、圧倒的な武力を見せ付けたうえで、右近を袋小路に追いこむ最も効果的で非情な手を打つ。イエズス会京都地区修院長のオルガンチノに右近の説得を命じ、もし説得できなければ、キリシタン宗門を断絶すると迫ったのである。高槻城下はもとより、日本のキリシタンの命運はこのとき、右近の手に委ねられていた。

●〔高山一味〕
 高山氏はもともと摂津高山の地頭であったらしい。右近の父、飛騨守は松永久秀に仕え、大和(奈良県)の沢城主のころに受礼した。当時12歳だった右近も一族・家臣約150人とともに洗礼を受けている。以後、高山氏は畿内でも有数のキリシタン武士団として知られるようになった。

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