北國新聞朝刊(2001/04/03付)

謙信との戦い 
語られなかった負け戦 
上杉方は誇大に記録か

信玄をはじめとする上杉家の当主らの墓所
 輝かしい戦歴が伝わる前田利家だが、もちろん勝ち戦ばかりだったわけではない。しかし、大切な部下を失い、屈辱に身を切られる敗北の記録など、できれば消してしまいたいと思うであろう。越前・府中(いまの武生市)の大名となって2年後の1577(天正5)年、数え年41歳の秋、恐らく初めて足を入れた加賀の地で、利家はそんな戦いに遭遇した。
 この年、能登攻略を企てていた越後の上杉謙信が七尾城を攻撃した。織田信長は柴田勝家、利家、佐々成政らに北上を命じて迎撃させる。利家ら北陸方面軍だけでなく、羽柴秀吉、滝川一益(たきかわかずます)らの部将も加えた大軍が加賀の野に進出する。
 織田方の記録は、利家ら部将の名を列記して動員力を誇る。しかし、肝心の戦闘についての記述は極めてあいまいである。信長や秀吉に仕えた太田牛一(ぎゅういち)が著した「信長公記(しんちょうこうき)」は良質の史料とされるが、そこには、大軍がいまの小松周辺の集落などを焼き払ったことや秀吉軍が勝手に戦線離脱して信長の怒りを買ったという「事件」が特筆されるが、戦闘があったかどうかには触れず、「10月3日、北國表の諸勢は帰陣した」と記して筆を止めている。
 前田側の記録には、「松任城が謙信勢に攻略されたので信長軍は越前まで引いた」というくだりがあるが、これも戦闘には触れてはいない。
 対して、上杉側は誇らしげに勝利の記録を残す。9月23日夜、「先陣が完勝し、千余人を討ち取り、残兵をことごとく湊川(手取川の別名)へ追い込んだ。折からの増水で人馬がおびただしく流れ死んだ」という。「信長軍は案外弱い。この分なら京都への進撃に不安はない」と豪語した謙信の言葉まで伝える。
 勝者は誇張も交えた記録を残し、敗者は沈黙する。謙信や利家に限ったことではないが、織田方の沈黙もあってか、この「湊川の戦い」は地元でもあまり知られていない。上杉側の夜襲があったという水島郷(いまの松任市水島町)は田園風景が広がり、暴れ川の川原が広がっていた往時の面影をとどめてはいない。
 能登・加賀を攻めた謙信の軍功は、信長軍を破った湊川の戦いよりも、難攻不落を誇った七尾城攻略の方が後世に語り継がれている。陣中で中秋の名月の宴に詠んだという「霜は軍営に満ちて秋気(しゅうき)清し…」の詩は広く知られている(もっとも、中秋の名月の九月13日以前に落城したとの記録はない)。謙信にとっては、能登の山城攻略よりも信長軍をけ散らした戦いの方が、はるかに自慢のタネであったはずである。しかし、敵方だった秀吉や利家らに対する配慮が後に働いたのだろうか。「越山(えつざん)あわせ得たり能州(のうしゅう)の景(けい)」と詩を吟じる謙信の姿ばかり好んで取り上げられている。
 能登、加賀を攻めたとき、謙信が着用したと伝わる甲冑(かっちゅう)が山形県米沢市に残る。同県指定文化財で、祖父のコレクションを展示する宮坂考古館の宮坂直樹館長によると、体をすき間なく覆い、さらに動きやすく工夫された実戦向きの甲冑という。「謙信公所用」は無論言い伝えであるが、ここでも説明板には「七尾城攻略の際に着用」とだけある。
 向かい合うように、金色のうろこ型のそでを付け、胴や草摺(くさずり)などが朱漆塗りという派手なつくりの甲冑が並ぶ。「伝 前田慶次(けいじ)の具足」とある。慶次は利家の兄の養子となり、前田の家督を継ぐはずだったが、信長の命で実現せず、後に上杉家に仕えた武将である。利家同様に「かぶき者」で知られ、小説やコミックの主人公にもなった。米沢では利家のおいの人気が高まり、「ゆかりの地を訪れる若者たちも多い」と聞かされた。
 手取川の戦いは、織田、上杉勢の初めての対決であるが、上杉方の記録によっても、さほどの規模ではない夜襲に過ぎない。さらに、上杉軍には一向一揆(いっこういっき)勢が加担していた。夜襲の成功は、地元の利を生かした一揆勢の殊勲だった可能性もある。
 利家らが肝を冷やした相手は、百戦錬磨の上杉軍だったのか、それとも織田方に追い詰められて懸命な抵抗を続ける一揆勢だったのか。史料は沈黙するだけである。ただ、戦いの翌年、謙信は病死して再度の北陸遠征は実現せず、織田方は後に加賀で大規模な一揆勢掃討作戦を展開した。その事実が残るだけである。

七尾城攻防

 上杉謙信の北陸遠征は、長年対決してきた甲斐の武田氏の勢力が弱まってきたことや、越前の朝倉氏が信長に滅ぼされたことなどが引き金となった。武田氏や一向一揆勢を共通の敵としていた織田、上杉氏は、「敵の敵は味方」とする戦略によって一時、よしみを通じていた。しかし、織田勢が北陸に進出するにつれて対決は避けられなくなり、上杉勢は敵対していた一向一揆を指導する本願寺教団と手を握る。
 謙信が攻略した七尾城は、能登の守護大名畠山氏の居城で、難攻不落の名城とされた。しかし、当時、信長や謙信、一向一揆に通じる重臣らが対立しており、落城も重臣の一派が謙信に内応したためとされる。その後も旧重臣らの対立は尾を引き、利家が能登の大名になった後も、反信長勢力による反抗に苦しむことになる。

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