桜井源五の屋敷地跡を確認するあばれ祭の関係者=能登町宇出津

「宇出津新村地所見立頭振屋舗ニ願上云々」に記載された桜井源五の屋敷地を示す延宝3年の絵図(金沢市玉川図書館近世史料館所蔵)

 能登町宇出津の県無形民俗文化財「あばれ祭(まつり)」を創始したとされる初代桜井源五が屋敷を構えていた場所が19日までに、町教委学芸員と宇出津公民館の調査で分かった。源五の屋敷地は言い伝えでおおよその位置は分かっていたが、正確な場所は把握されておらず、江戸期の文献が手掛かりとなった。公民館などでは屋敷地を示したパネルを作り、地域の歴史を物語る史料として顕彰していく。

 確認された源五の屋敷地は宇出津の梶川橋のそばで、現在の川原町町内会の一角に当たる。江戸期の宇出津新村に関する文書を集めた史料「宇出津新村地(ち)所(しょ)見立頭振(みたてあたまふり)屋舗(やしき)ニ願上云々(ねがいあげうんぬん)」(金沢市玉川図書館近世史料館所蔵)に収録された絵図2枚に「源五屋舗」と記されていた。町内ではこれまで屋敷地に関する文献は見つかっていなかった。

 絵図は延宝3(1675)年と文化10(1813)年作成の2枚があり、いずれも「源五屋舗」の記述があった。町教委学芸員の寺口学さん(32)と宇出津公民館や宇出津祭礼委員会の関係者が史料の中身と現地を調査し、源五の屋敷地跡と確認した。

 絵図には現在の川原町と隣の新村本町の両町内会の屋敷地割が描かれ、土地にかかる税金の算出に利用されたとみられる。源五の屋敷は幅約85メートル、奥行き約30メートルと広大な敷地だった。内浦や鵜川、柳田に行く際の道の分岐点に当たり、加賀藩十村(とむら)役の源五が管轄地域へ出掛けやすいよう屋敷地に選んだと考えられるという。

 梶川橋は祭りでは、荒々しい扱いを好むとされる神様を喜ばせるため、神輿(みこし)を川に投げ入れる場所の一つとなっている。宇出津祭礼委員会の寺下正博委員長(71)は「屋敷の前で神輿を川に入れ、源五に見せていたのかもしれない。屋敷地が分かり、源五の功績も伝えていきたい」と話した。

 調査の結果は11月1日に県柳田星の観察館「満天星」で始まる企画展「江戸時代に描かれた絵図・地図に見る能登」(北國新聞社後援)で紹介する。

 ★桜井源五 農村統治を任せられた加賀藩の十村で、金沢と旧柳田村で十村を務めた後、寛文4(1664)年に宇出津に赴いた。約350年前から続くとされる能登町宇出津の八坂神社の祭礼「あばれ祭」は源五が宇出津に広まった疫病を鎮めるために神社を建立し、始めたと伝わる。源五を名乗った人物は幕末まで5人おり、3人目の源五は奥能登最大の一揆「宝暦の一揆」で打ち壊しに遭った後、松波に転居した。

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