石川のニュース 【3月6日03時07分更新】

尾張町ですれ違い 伊能忠敬と西村太冲

発表の準備をする河崎さん。手前は機器を用いて天体観測する伊能忠敬の一隊を描いた絵図の写し=県立図書館
 伊能忠敬研究会員の河崎倫代さん(金沢市畝田中)が、加賀藩の天文暦学者西村太冲( たちゅう)と測量学者の伊能忠敬がほぼ同年代、ともに金沢の尾張町付近で天体観測を行 った「歴史の偶然」に着目し、6日のシンポジウム「近世後期金沢城下−変貌(へんぼう )する暮らしと文化」(北國新聞社後援)で当時の観測法などを紹介する。郷土の天文暦 学者と、詳細な日本地図作りに挑んだ測量家の交わらなかった縁に触れ、藩政後期金沢の 科学をめぐる状況を解説する。

 1803(享和3)年7月、測量調査で全国を巡っていた忠敬は尾張町の住吉屋太兵衛 宅(現・森忠商店)に投宿した。全国行脚には改暦のためのデータ収集という大きな目的 があり、夜は機器で星の高度を測る日々が続いた。河崎さんは「おそらく住吉屋の中庭か 近くの空き地で観測したのだろう」とみている。

 一方、太冲はその3年前の1800(寛政12)年4月、住吉屋から約100メートル しか離れていない母衣(ほろ)町の沢田吉左衛門宅(現・主計町緑水苑付近)で日食を観 測した。当時の書簡などから、観測データが江戸と大坂の天文学者へ送られ、両地からも データが届いたことが知られている。

 当時、藩校明倫堂で教えていた太冲は1年で故郷城端(現・南砺市)に戻った。3年後 、忠敬測量隊の来訪を知って助手を志願したが、加賀藩は情報漏えいを恐れて許可せず、 結局2人は生涯相まみえることはなかったという。

 藩によって城端に留め置かれた太冲だが、約20年後の1821(文政4)年、召され て金沢の町絵図作成や時刻制度の改革などにかかわった。

 河崎さんは「2人の『ニアミス』はまったくの偶然だが、最先端の科学知識で時代を開 いた2人が同じ町から同じ空を見ていたとは興味深い」と話している。


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