連載企画 加賀百万石異聞「高山右近」

北國新聞朝刊(2002/09/03付)
甚右衛門坂 〜
一向一揆の国にキリシタン集団 利家と右近、思惑秘めて

甚右衛門坂から市街を見る。利家入城以前、佐久間盛政が城主のころ、城の西側が大手で、この坂下から今の堤町にかけてが一向一揆との戦場だったという
 高山右近が金沢城下に入ったのは1588(天正16)年の秋と言われている。正確な日時の記録はない。晩夏のころともいう。414年前のちょうど今ごろであったかもしれない。
 右近36歳。家族ともども、最初に落ち着いたのはどのあたりだったのだろうか。広坂・本多町近辺との伝承とともに、明治にはいってから郷土史家、森田柿園(しえん)の書いた「金澤古蹟志(かなざわこせきし)」にはこんなくだりがある。
 「伴天連(ばてれん)居址 この居跡は、甚右衛門坂(じんえもんざか)の下、元神護寺(じんごじ)の地辺りなり」
 甚右衛門坂とは、金沢城の西北側、西町に下りる坂のことで、その坂の下と言えば、現在の金沢商工会議所から尾崎神社寄りの一帯となる。ここに、右近ばかりでなく、加賀のキリシタンが多く集まって住んでいたという。右近よりも金沢入りは遅くなるが「内藤徳庵(ないとう・とくあん)、宇喜多休閑(うきた・きゅうかん)、品川右兵衛(しながわ・うへい)、柴山権兵衛(しばやま・ごんべい)」ら右近を頼って金沢に逃れ来たキリシタン武将や藩士らの名をあげ、次のように柿園は記している。
 ―耶蘇(やそ)の伴天連諸士の邸宅が多いこと、信長記には安土に伴天連屋敷が作られた時期を天正8年としてあることなどから、金沢の伴天連屋敷も天正年中に建てられたものであろう―。
 さらに、利家が右近を金沢に招いた経過や、右近が「耶蘇寺の一カ寺でも建立させてくれること」を条件に加賀に来たことを記し、「その頃は法令も寛(ひろ)く、金沢にても紺屋坂(こんやざか)という坂辺りに南蛮寺を建てたりという」と金沢での右近の生涯を簡潔に紹介している。右近の最初の足取りをこの辺りと見ることができるかもしれない。
 金沢に入った右近の足跡は、この後、しばらくプツリと消える。キリシタン禁制が長く続いた中で、加賀藩が意識的に消し去ったことも背景にあるだろう。が、フロイスなど外国人宣教師がそれまで事細かく記述した右近の足跡が、加賀に入った途端に消えるのである。
 この事実は、右近の金沢入りが、かなり唐突なことで、九州・大坂の宣教師らも経緯を知らないまま事が進んだ様子がうかがえる。日本側の記録では、利家が好意的に受け入れたことになってはいるが、日本人キリシタンの柱とされた右近が姿を消した事態を悲観したのか、外国人宣教師らの反応は厳しかった。
右近の姿を描いたカトリック金沢教会のステンドグラス。まだ30代半ばでの金沢入りだった
 イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリエなどは、1年後に加賀に居ることを知るまでは、右近は秀吉によって殺されたのでは、と疑ったほどだったといい、次のように書き残している。「前田利家は右近の友人であったから、右近は好意ある待遇を期待し得たのだが」「前田は友情と親切を示さず、右近はひどく失望することとなった」「加賀で囚人同様に取り扱われ、それは関白(秀吉)の委託で行われ」「加賀では大いなる貧困と困窮を忍んでいる」(「高山右近の生涯」ヨハネス・ラウレス著)。
 フロイスも「日本史」の中で、右近の金沢入りを「新たな追放であり」「北の辺境の地であり、相談相手となるべき司祭や修道士もおらず、教会やキリシタン宗団もないところ」と、腹を立てている。
 しかし、右近の金沢入りは布教もできない辺境への追放という厳しいものではなかったことは、十数年後の当のイエズス会宣教師たちのレポートが、雄弁に物語っている。むしろその逆だったのである。
 「これらの国々(加賀のこと)は一向宗と称する宗派の頭目である大坂の仏僧のものであったが、信長がそれを奪った。それらの国々にはこの宗派の信徒と多数の仏僧が満ち溢(あふ)れていた」。その信徒も今や再建する力はなく、「キリシタン宗門を授けわれらの聖なる教えの友となり、少なくともわれらの教えに反対しない」政治となれば一向宗の壊滅は決定的になる、というのである(イエズス会日本報告書、1601、1 602年「北國への伝道」=松田毅一監訳)。
 右近を招いた1588年は、利家が金沢に入城してまだ5年。城は築城途中で、本格築城は1592(文禄元)年まで待たねばならない時のことである。一向一揆勢への警戒を怠ることはできなかった。一方の右近にとっても「教会やキリシタン宗団のない」加賀の国は、布教のための新天地であった。
 利家と右近、互いに思惑を秘めて加賀の国の「開拓」が始まったのである。

●〔1588年秋〕
 秀吉は、右近追放にあたり、前田利家か徳川家康のどちらかを選ぶよう申し渡したという。この他に右近を抱えようとした武将には蒲生氏郷、豊臣秀次がいたとも言う。加賀藩関係文書に右近の記述は極めて少ないが「武道に通じ文道に心がけたる風流の士」など好意的な記述が多い。キリシタンに同情的なことを書き残すことがはばかられた藩政時代に書かれたものとしては意味深い。金沢入りの時期については、海老沢有道説は「1588年秋」、ヨハネス・ラウレル説は「1588年晩夏」、ほかに、宣教師報告書から推定して1588年後半期から翌年2月ころまでの間とする諸説がある。

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