加賀百万石の領土を一代で築いた前田利家。彼の人生は決して平坦ではなく、常に危険と隣り合わせの波乱に満ちたものだった。将としての才覚だけでなく、人間関係を重んじる忠節の心と、彼を支えるまつという理解者がいなければ、利家が戦国時代を生き延び、百万石という圧倒的な地歩を固めることはできなかっただろう。 サクセスストーリーを築いた利家の人生はどのようなものだったのだろうか。

 前田利家は1537年(天文6年)、尾張国荒子村(愛知県名古屋市中川区荒子町)で土豪・前田利春の四男として生まれた。幼名は犬千代。君臣の間柄を超えて親交の篤かった豊臣秀吉も同じ年の生まれだといわれている。若い頃は荒くれ者で通 っていたが、後年は能や茶道、書にも親しみ、またそろばんを使った算術も得意だったという。
 自らの力で立身出世を思い立った利家は1551年(天文20年)、十五歳のとき三歳年長の織田信長に仕えた。当時、利家はけんか好きの「かぶき者」として名高く、「又左の槍」と呼ばれる長槍で人々におそれられていたが、一本気で裏表のない性格で信長にかわいがられた。同じく「大うつけ」といわれた信長の破天荒な性格と通 じるものがあったのかもしれない。利家は母衣衆(ほろしゅう)と呼ばれる織田側近軍団の赤の筆頭としてめきめきと頭角を現し、武勲を重ねていく。同年輩で、ライバルでもある佐々成政(さっさ・なりまさ)は、同じく母衣衆の黒の筆頭で、何度も死線を共にした仲だった。
 一方のまつは、1547年(天文16年)、尾張国海東郡に生まれる。母が利家の生母・長齢院の姉で、利家とは従兄妹同士になる。まつは前田家で養育されており、1558年(永禄元年)に、十歳違いの利家に嫁いだ。若干十二歳の花嫁だが、容姿は美しく、快活で社交的、おまけに読み書き、そろばん、和歌、武芸などをたしなむ才色兼備の女性だった。
 しかし、まつとの結婚の翌年、利家は信長の逆りんに触れる。無礼をはたらいた信長の側近を切り捨てたため、信長が激怒したのだ。織田軍から勘当された利家は流浪生活を余儀なくされる。単独で馳せ参じた桶狭間の合戦での命懸けの奮戦も空しく、ようやく許され織田家への帰参を果 たしたのは、二年後の1561年(永禄4年)のことだった。
 1568年(永禄12年)、利家は、信長の命で前田家の長男・利久に代わり家督を継ぐ。後継ぎの無かった利久は養子を取って家督を継がせたいと願ったが、信長がそれを許さなかったのだ。予期せず舞い込んだ家督相続だったが、利家は上の兄たちと争うことを嫌い、夫婦共に気配りを絶やさなかったという。
 その後、1570年(元亀元年)に始まった大坂本願寺との十一年に及ぶ石山合戦や、1575年(天正3年)の長篠の戦いでも功績を挙げ、前田家の地位 を盤石にしていく。同年、越前の一向一揆を鎮圧した信長は、本願寺と結ぶ対上杉謙信の牙城として、利家、佐々成政、不破光治(ふわ・みつはる)の三人に城を与えて加賀の統治を行わせた。越前北庄(きたのしょう)城(福井市)の柴田勝家の下、利家は府中城(福井県武生市府中)を任され、「府中三人衆」と呼ばれる三万三千石の大名になったのだ。勝家には勘当事件のころから目をかけられており、利家も勝家を「親父様」と呼んで親しんだ。このことが、信長死後の秀吉と勝家の跡目争いの際に影を落とすことになる。
 たびたび起こる一揆を鎮めながら迎えた1577年(天正5年)、反織田包囲網の一角である上杉謙信が加賀に攻め入った。信長は勝家や秀吉を主力とする軍勢を加賀に派遣する。当然、府中三人衆も従軍したが、一向一揆と結んで七尾城、松任城を落とし、破竹の勢いで西進する上杉軍を抑えきれず、一敗地にまみれる。しかし、翌年謙信が病没したため、加賀方面 の脅威は取り除かれた。これを機に、利家はなお混迷を続ける能登に根を張ることになる。謙信の七尾城攻めの際に内応した家臣と、城主の子・長連龍(ちょう・つらたつ)の間でいくさが起き、鎮定のために1580年(天正8年)、利家ほかが能登に派遣されたのだ。翌年、利家は能登一国をまかされ、更に翌年の1582年(天正10年)には「利家の出世城」と呼ばれる小丸山城(七尾市馬出町)を築く。また、三月には富山城を抜き、魚津城を囲むなど、上杉勢を逐って越中の平定に力を注いだ。佐々成政は、上杉勢への守りとして越中に入った。
 ところがこの年の6月2日、織田家をゆさぶる大事件が起こる。本能寺の変である。信長が明智光秀の謀反により、本能寺で亡くなったのだ。利家はあわてて小丸山城に引き返し、信長の死を機に能登を奪回しようともくろむ元七尾城内応派の攻勢に備えた。こうして起こった石動山の合戦は、金沢(尾山)城の佐久間盛政(さくま・もりまさ)の助けも借りて、利家の勝利に終わる。母衣衆を務めた利家の面目躍如であり、能登の領国を賭けた天王山であった。
 しかし、事態は風雲急を告げる。本能寺の変後、山崎の合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉と、柴田勝家の間で、信長の跡目を巡って争いが起こったのだ。利家は秀吉と夫婦ともども親しく、秀吉の娘の豪と菊を養女に出す間柄であった。一方、若い頃から一再ならず助けられた勝家は、まさに「かぶきもの」利家の「親父様」だった。一本気な利家はどちらにも付けず両者の仲の取り持ちに奔走するが、それも空しく1583年(天正11年)4月、両軍は賤ケ岳で激突することになった。
 利家は勝家側に付いた。初戦は勝家軍が勝利を上げるが、翌朝秀吉が勝家側の佐久間盛政を破ると、利家は突然撤退を始め、その結果 勝家軍は総崩れになった。撤退した理由は明らかではないが、母衣衆として、また一向宗の信仰篤い能登を治める戦国武将としての嗅覚が、戦いのすう勢を見極めさせたのかも知れない。利家は大きな被害を出しながらも府中城まで退却し、秀吉の誘いに応じて和睦した。それに先立ち、勝家は利家に長年の親交を感謝し、上下の関係を解いていた。情に厚い利家が秀吉に下れるようにとの、「親父」としての最後の手向けであっただろう。和睦後、利家は秀吉の先鋒として北庄城攻めを行うことになり、降伏後、勝家の助命を願ったが許されなかった。
 秀吉は加賀に兵を進め、旧勝家勢の総入れ替えを行う。利家は能登に北加賀(石川、河北二郡)を加領され、更に嫡男の利長も松任四万石に任じられる。「百万石祭り」は加賀百万石の礎を築いた利家が金沢城(尾山城)に入城したのを記念したもので、当時の武者行列を再現している。賤ケ岳の戦い後、今度は徳川家康が信長の二男・信雄(のぶかつ)を立て、1584年(天正12年)、尾張の小牧・長久手で秀吉と激突した。これと呼応して、家康側に付いた佐々成政が末森城(押水町)を攻め立てた。成政とは大名になってからも良きライバル関係で、利家は二男・利政を成政の養子に出す話しも進めていた。しかし、成政の攻撃で関係が崩れ、末森城は十倍の敵に囲まれることになった。利家は家臣の慎重論を退けてすぐに救援を送ったが、このときまつが、自重を促す秀吉の命に逆らうべきか迷っていた利家を「大切な家臣を見殺しにするのか」と叱咤したという。利家は二千五百の手勢で、一万五千の成政軍の背後を突いて末森城に入城。反撃をあきらめて越中に後退した成政は、上杉と利家に挟まれて孤立し、1585年(天正13年)に秀吉自身の出陣で降伏した。1588年(天正16年)、成政の領地換えに伴い、利家は嫡男・利長の領地と併せて加越能三カ国の太守に任命される。末森城の戦いは、ライバルとして互いに武勲を重ねた二人の明暗を分ける戦いとなった。
 1856年(天正14年)以降、利家とまつは上洛して、秀吉の側近としての生活が多くなる。娘の麻阿(まあ)が秀吉の側室に、豪が養女に入っており、豊臣家と前田家は強い姻戚 関係で結ばれていた。この当時、利家は京都から金沢城と城下町の本格築城を指示している。また、東北大名の取り次ぎ役として、伊達政宗などの服属にも貢献している。1590年(天正18年)、関東の北条氏を攻める際には北部軍勢の総大将に任命されたが、敵対した大名への処置の甘さが秀吉の勘に障り、一時は謹慎を命ぜられることもあった。しかし、利家は徳川に次ぐ豊臣家臣団の筆頭として秀吉の信任を受け、後の朝鮮出兵の準備や陣立てでも秀吉を補佐している。関白秀次を巡る武家派と奉行派のいさかいの教訓から1598年(慶長3年)7月に五大老・五奉行制が敷かれ、利家は従二位 前権大納言に就任した。秀吉が政務と子・秀頼の補佐を、それぞれ家康と利家に託して世を去るのは一カ月後のことである。
 秀吉が没した翌年の1599年(慶長4年)、利家は秀吉の遺言に従い、幼い秀頼を伴って大阪城へ入城した。長男・利長、二男・利政も入り、病気をおして、前田家総力で秀頼を助ける体制を敷く。伏見城の家康が独断専行の兆しを見せると、利家は石田三成ら五奉行に担ぎ出され、一触即発の緊張が走った。結局、和解することになったが、その交渉に自ら伏見城に赴いたのは、「私の死後、法度に背く者があれば単身で当事者を訪ねて意見せよ。それで斬られるのは私に殉じることと同じ忠義の現れである」という、生前の秀吉の言葉からだった。利家は、家康に自分を斬らせて、討伐の大義名分を得るつもりだったのだ。しかし、家康は誘いに乗らず、譲歩を重ねて、和解に応じた。
 それから一カ月後、利家の病状は重くなり、今度は家康が利家を見舞った。このとき、利家が長男・利長に「心得ているな」と念を押すと、利長は「もてなしの準備は整っています」と答えた。利家は、家康に後事を託した。家康が帰ると、利家は布団の中から刀を取り出し、差し違えてでも家康を斬るつもりだったことを利長に告げた。そして、機を読みとれなかった息子に「お前に器量 が有れば家康を生かして帰しはしなかったのに」と嘆いたという。
 1599年(慶長4年)の閏3月3日、秀頼の行く末を案じながら、六十三歳で利家はこの世を去った。まつに筆記させた遺言に従って、遺体は金沢の野田山に埋葬された。 関ヶ原の合戦は翌年9月。家督を継いだ利長は、出家した生母・芳春院(まつ)を江戸へ人質に出し、領地の安泰を図った。利家が息子に託した願いはかなわなかったが、そのおかげで前田家は生き残り、加賀百万石の伝統文化を花開かせることになった。