京都市の美術館が保管していた江戸時代前期の端午の節句の鎧(よろい)飾りが、加賀
藩の五代藩主前田綱紀(つなのり)に対し、御三家の一つ水戸藩の初代藩主で母方の祖父
にあたる徳川頼房(よりふさ)が贈った玩具(がんぐ)鎧であることが石川県立歴史博物
館によって確認された。戦国時代から江戸時代前期にかけての玩具鎧は、国の重要文化財
にもなっている豊臣秀吉と淀君の間に生まれた捨丸(すてまる)の鎧以外は確認例はほと
んどない。金箔や漆をふんだんに使った豪華な鎧は江戸の甲冑師(かっちゅうし)が手掛
けたものとみられ、前田家と徳川家との結び付きの強さをあらためてうかがわせる。
玩具鎧を保管していたのは、武具類を多く所蔵する京都井伊美術館。井伊達夫館長から
、この鎧の由緒について石川県立歴史博物館に確認依頼があった。
玩具鎧の箱書きには「松雲公(しょううんこう)御玩具鎧 正保元(一六四四)年吹喜
月(五月) 水戸宰相様より進ぜられそうろう」と記されていた。松雲公は綱紀を指し、
一六四四年五月は綱紀が誕生した一六四三年十一月から半年後の初節句に当たること、当
時の水戸藩主頼房が母大姫の父であることから、祖父頼房が端午の節句にあわせて綱紀に
贈ったものであることが分かった。
鎧は脛(すね)当てから兜(かぶと)を含めた高さが約八九センチと成人用の約半分で
、総重量は約二・七キロと六分の一程度。しかし、甲冑の職人が作った鎧は、材質や作り
など細部に至るまで通常の鎧と全く同じ。兜には加賀藩にちなんで梅鉢紋をあしらい、裏
面には漆、布地部分に金襴(きんらん)を用いるなどぜいを尽くしている。
当時、人形師が作った武者人形などの五月飾りは見られるが、甲冑師が玩具鎧を作る例
はきわめてまれ。わずかに、秀吉が捨丸に贈った「白綸子包童具足(しろりんずづつみわ
らべぐそく)」と「色々威童具足(いろいろおどしわらべぐそく)」(いずれも京都市の
妙心寺所蔵)が確認されている程度という。
確認に当たった県立歴史博物館の長谷川孝徳学芸専門員は「小さくとも、職人の技の粋
を集めて作ったものであることが伝わる。加賀藩と、水戸藩を含む徳川家との強いかかわ
りを知る資料となる」と話した。
玩具鎧は四月二十二日から、県立歴史博物館で始まる「加賀百万石への道―戦国から太
平へ―」(同館、北國新聞社主催、京都井伊美術館特別協力)で公開される。
●前田綱紀 1643―1724。加賀藩4代藩主光高の嫡男。母の大姫は光高の正室。
江戸に生まれ、わずか3歳で家督を相続した。79年間の治世では、改作法を実行し藩政
の基礎を安定させた。また学問の振興に努め、儒学者木下順庵(じゅんあん)らを招へい
、書物の収集にも努め、新井白石をして「加賀は天下の書府なり」といわしめた。
●徳川頼房 1603―61。徳川家康の末子として生まれた。7歳の時、水戸藩の初代
藩主となる。城下町水戸の整備や、領内総検地、水利事業、鉱山開発などに努めた。「水
戸黄門」といわれる徳川光圀(みつくに)は頼房の三男。